呼称の話
3月に大学の同期の結婚式があるので、そろそろ髪を切ったり準備をしなきゃな、と思っている今日この頃。
大学の同期である友人のことを思い出していると、なんとなく人の呼び方について考えていた。
大人になっていくと、友人を新しく作ることはほんの少しだけ難しくなるように思う。今はSNSや色んなものがあるから、好きなもので繋がることも可能だし、それで実際にできた友人はここ数年で何人かいる。
昔はインターネットと言えば匿名性が高く、実際に会うとされる「オフ会」など、ど緊張したものだが、今日の「オフ会」のようなものはずいぶん気軽になった。
共通のフォロワーがいれば、元々オフで知っている友人のことをうっかり名前で呼んでしまうこともある。呼ばれることもある。ある程度信頼を置いているため、名前がバレたとて、ヤバいことをしているわけでもなし、気にする人は気にするのだろうが、私はあまり気にしていない。
ネットで出会った人は大体、私をまるさんと呼ぶ。かなり長い間この名前を使ってきているので、まるさんは私。私にもう一つの名前があるような感じ。年齢とか、そういうものは互いにふわ〜とした認識をしているので、大体の人を◯◯さんと呼ぶことになるだろう。
でも、なんとなくこの人にはちゃん付けが似合うなあ、とか、〜氏がいいなあ、とか、渋いあだ名がいいなあ、とか、本人には言わないけど、思ったりする。小さい頃の癖が抜けていないんだと思う。
あだ名をつけると、なんとなくお互いの距離が近くなった気分になる。仲良くなる一歩目は、お名前をなんて呼ぶ!?そういう考えが私には多分あるのだろう。
実際、大人になってくると名前を呼び捨てで呼んでくる人ってあんまりいない。
大学院生の同期に、「まるって呼ぶね!」と言われ、オオ…久しぶりの呼び捨て…と思ったのを覚えている。それ以来、私のことを名前で呼び捨てで呼ぶ人は現れていない。別に親しい、親しくないには関係なく、シンプルに〜ちゃん、〜さん、〜くんがテンプレートなんだろう。
インターネット上で、オフの友人である幼馴染のくまちゃんは私を「まる」と呼ぶ。私は普段彼女を名前で呼ぶのに、なぜかツイッターや何やらでやり取りする時はのくまちゃんになる。
まる、とのくまちゃんに呼ばれた時、なんかすごい恥ずかしかった。もう一つの側面であるインターネット上の自分が、グイン!と現実に近づいた感じがした。謎の照れ。それで言うと、私がのくまって呼んでもいいわけだけど、なんか、ちゃん、つけちゃうな…みたいな。
それから本名の話だ。
私の場合、名前にあだ名がつけにくいということもあり、大体の友人は私を名前で呼び捨てにする。もしくは、名前にちゃん付け。高校生の時には名前と全く関係のないあだ名が広まったこともあったし、逆にそれが本名をもじったものだと思い込んでいて、私の本来の名前を知らない同級生すらいた。
一度、面白いあだ名をつけるのが得意な子がいて「つけてみてよ〜」と言ったら「神様」というあだ名がついてしまい、彼女はとても朗らかで元気な子だったので、朝に駐輪場などで会うと大きな声で呼ぶのだ。
「神様〜〜!!」
その先でチャリを停めている私は神様とはほど遠い、どこからどう見ても普通の女子高校生である。
それからよくあるのが、苗字を呼び捨てのパターン。
中・高によくある、なぜか苗字で呼ぶというそれ。大体、半々くらいの確率だった気がする。呼びやすい苗字というのがあるとしたら、私は多分名前より苗字の方が呼びやすいのかもしれない。発音的に。苗字で呼んでくる同姓の友人には苗字返しで。謎の作法。
高校を引きずって、大学ではなんとなく苗字呼び捨ての友人もいる。なんとなくそうなった。でも、名前で呼ぶこともあるし、結局のところその人が誰であるかという目印なのだ。一番最初につけられる、その人だけの、目印。
私自身が、ずっと上下関係のあまりないところで自由にやってきたからか、元々の気質もあるのか、少しでも直接話すことがあると、敬語なるものがどこかにいってしまう。考えてみると、中・高では先輩と呼べる人たちは部活にいたが、今まで付き合いがある人は皆無だ。
初めてできた先輩というのは、大学時代の人たちということである。元々文化系の私は、先輩!と呼べる存在にかなり憧れはあったものの、実生活には存在しなかった。
マンガとかであるじゃん、なんかほら…先輩!みたいな…そういうのを体験してみたい…的な。
最初こそは、サークルや学科の先輩を先輩!と嬉々として呼んでいたわけだが、気づくと◯◯ちゃん、◯◯くんになっていた。おまけに敬語の文化も私の中では荒廃した。
ふ、と流れるように敬語がどこかに行って、最初は相槌が「うん」になる。もうこうなったら終わりだ。気付いたら、大切な話をするときは敬語でも、日常の話をする時はタメ口で話している。
私の周りにいる人たちが優しいのはまず大前提で、あ、大丈夫だな〜と謎のラインを自分が超えると大体の人たちをちゃん、くんで呼び出す。
年上でもあだ名呼び捨ての人もいるけれど、それは親しみを込めての呼び方で、相手と自分の中である程度信頼関係あって…のことと私は、思っている。相手はわからない。戸惑わせている確率もかなり高い。
たまに距離感の詰め方がどうかしていると言われるので、それもいなめねえな…と思ってはいる。
急激に仲良くなれる人というのは、大体が波長が合っているからだと思っている。面白いと思うポイントが同じだったり、似たような言語を使ってたり、そういう。
こういう人間なので、気を遣われると異常に緊張する。
後輩や年下にもなるべく気楽にいてほしい気持ちがあって、自分が先輩にしてもらって楽だったこと。持ち合わせた気質ごと、どう接せられてもなんと呼ばれてもまあいいか〜と思う。
柔らかすぎるのもどうなのかと思うんだけれど、人が好きだから人に寄られることも、人に寄ることも好き。
その中で、呼称、はその人を認識して、相手を知るための大切な名前とセットで使いたい。なんだか、その人にぴったりなもの。
しっくりくる、自分なりの目印。
実家に帰ってきて、日記にも書いているように犬がいる。
犬はチロという名前なのだが、家族にはチーちゃん、もしくはチーと呼ばれている。それらを犬は私の名前!と認識しているようだ。
兄が犬をチーと呼ぶのと同じように、最近私の名前を頭の文字を伸ばして呼ぶようになった。丸いとかまるなら、「まー」みたいな感じ。
変な感じ〜子ども扱いされてるみたい〜と思うけど、兄にとっては私はずっと妹なので、そういうもんなのだろう。
名前の呼び方って不思議だよね。
そして、おもしろい。ちょっぴりその人と誰かの関係性が見えたり、私と誰かの関係が見えたり。
小さなことだけれど、私はひっそりと楽しんでいる、ということに気付いた日記でした。