やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

自認の話

 

同じ部署でコロナになった人がいて、今週末は関西に遊びに行く予定だったけどやめることにした。友人たちはまた集まろー!と言ってくれたけど、楽しみにしてくれてただろうに申し訳ない気持ち。

でも健康が第一だからね。

 

今、イベントに向けて原稿を描き進めている。その歩みは亀のごとし。恐るべき遅さでのろのろと進めているが、やっと納期を調べたらまだいける…!とりあえず本にはできるんじゃない!?と思ったのでできるかぎりで頑張ることにした。

 

ジャンルは創作のBLイベント。BLと銘打たれたものに出展することにしたものの、これ本当にBLなのかね…と思いつつ、描いている。

多分、描きたいものの本質が男の子同士のあれこれというより、人と人のあれこれなのだと思っている。じゃあなんでBLのジャンルイベントなんだよ…!と思うけど、棲み分けを気にしているところもあるので、本当に申し訳ない。

 

好きなのは好きだ。でも百合も好きだし普通に男の子と女の子同士の話も好きだし、自分は割とどれかにこだわっているのではないのだと思う。

昔からの自分の中にある違和感で、自分の恋人、付き合っている人を彼氏、と呼ぶことに少し抵抗がある。彼氏はね、と話すのもなんというか変な感じがして、いつも付き合っている人が、や、一緒にいる人が、と言うようにしていた。言いやすいから、つい彼氏という言葉を使ってしまうこともあらのだけれど。これは、旦那、という言葉や奥さんのような言葉も同じだ。

最近は、パートナーと呼ぶ人が増えたように思う。昨今の性自認についての多様性におけるものだと思っている。私も、パートナーがいる人についてはそう呼ぶことにしている。

 

高校生の頃から、私の周りにはバイセクシャルの人が多かった。特に、大学では自分をそう自認している人に出会うことが多く、私自身、同性から告白を受けたこともあれば、パートナーとしての関係となったこともある。

けれど、私自身はこの人とパートナーです。と、堂々と口にすることやはっきりとした形にすることができなかった。純粋に人から向けられる視線に、私が耐えられなかった。相手であったその人は、そこを私がそうだと思ってくれさえすれば、それでよかったと、時間が経ってから話してくれたことがあった。でも、それによって、相手を傷つけたことは間違いがなかった。

それから、私は何なのだろうと、ずっと考え続けている。

服について記事を書いたことがあるが、その時も少し考えていた。私はレースやフリルのような女の子らしい、というものが好きではなかった。女の子らしくあれ、と言われることへの妙な抵抗感。それは好きじゃない。どうして好きじゃなかったのか、それは自分には似合わないものだと思っていたからだ。

似合わないと思っていた直感的な部分からか、大学生の服装迷走期はいわゆるメンズライクと呼ばれるスタイルをしていたこともあったし、男性用の服をいいじゃん、と思えば手に取っていた。

 

好きだと感じること。

それは、どこに境界線があるのだろうといつも思うのだ。友達への「好き」異性や同性へのいわゆる、恋と呼ばれる「好き」。その違いって一体何?性的な接触なのだろうか。わかりやすい一つの境界線とする人もいるだろうが、それは私にはわからない。キスができることも、セックスができることも、その延長線上にあるのはわかっている。でも、それで満たされるものと、満たされないものはきっとある。

最近では、身体的接触を望まずともあれる、そういう人もいるのだと性自認について調べていたら知ることがあった。そうなんだなー、と思った。私の好きは、何なのだろう。なんなら、そういう感情を抱かない人もいるのだという。そういう人間なのか?よくわからない、になっている。

 

子宮に関する病気になった際、私の病状はすぐに手術をしなければならないほどに進行していた。大きな病院での再検査前に、診察を受けた病院から手渡された資料には「妊娠を望むか否か」また、「妊娠ができる状態であるか否か」で、手術内容が変わりますと書かれていた。

まだ何もわかっていなかったけれど、漠然とした不安で頭が真っ白になった。とりあえず家族には連絡をしなくてはならないなと思って、母に連絡をしたら、涙が出た。この涙は、子どもをつくることができない体かもしれないという怖さだった。備わっている当たり前の機能が欠けてしまう。

その怖さは、心にある怖さというより、身体的な直感で、女性として生まれた私の怖さだった。

この一件から、ますますわからなくなった。

 

こうして誰かが誰かと一緒にいること。同性であること。それが、なんらかの拒絶や、否定、微かな抵抗感。違和感。そういったものをどう受け取って、どう考えるのか。この区切りを認識しているから、おもしろいフィクションがボーイズラブ、もしくは同性同士のお話なのだと思う。
それは、別に同性であるからこそ起きることだけじゃなかったりする。人と人が一緒にいる限り、すれ違うことは多くある。それを、同列に考えることってそんなに難しいことなんだろうか。子どもを産めない人は、私の罹った病気のような人でも、あることだ。私がどうしても人と人の話を書きたいと思ってしまうのは、自分の中でそういったものを同じ位置に見ることができたらいいのに、という気持ちがある。または、自分の中への肯定。それをただのラブとか愛とか呼んだらダメなのか…?

 

多様性。この言葉は、便利だと思う。でもちょっと聞きすぎて、私はますます混乱するようになった。受け入れられること、受け入れられないことが人それぞれにあることはそうだ。私だって許せないものは許せないし。

でも、そういうこととは別なんだよね、多様性の話はさ〜とか言われると、え〜じゃあ、私はいまだに自分がどういう人間かわからないんだけど、どうしたらいいんだろうな、と思ってしまう。自分のことを諦めたわけじゃない。ただ、こういった性自認になると、私はわからないなと思ってしまうという話なのだ。

 

誰かと誰かが一緒にいること。

その生活の中で、混ざったり、混ざれなかったりすること。触れたいと思うこと、触れなくても愛おしいと思うこと。重なり合えるパズルのピースのような人たち、そうじゃなくて一緒にいられなくなってしまった人たち、肯定することができない人、できる人。

大円団だって大好きだ。自分が読む分や、見る分には楽しいなとかよかったなあと思う。でもじゃあ、自分は?と思った時、それとこれとはまたちょっと違っている。

そうなるべくしてなった人たち。でも、ずっとじゃないかもしれないし。長い人生のどこかを切り取った話を書いていると、どうなるんだろうな、と思う。

 

こういうことを考えていると、やっぱり全部ラブじゃダメか?と思う。

全部ラブでいいじゃん。ラブにしてくれよ。私はラブだと思っているよ、これらの全てをな!と思いながら、原稿を書くときいつも思っている。オールラブジャンルってできないかな。ダメかなあ。私だけでもいいか、オールラブジャンル。

自分自身の自認に名前をつけたいのは、人間が知らないものを怖いと思うからだろう。けれど、この怖さっていうのは面白さと紙一重なのだと知っている。恐れは理解から最も遠い感情だと言われるけれど、この怖さが面白さになる瞬間、いつになるかわからないし、いつでもいいし、わからないままでもいいし、とりあえず考えることをやめずにいようかな、と思っている。