やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

骨になり、灰になる話

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ツイッターを見ていたら、「マイ・ブロークン・マリコ」の映画のポスターや情報が流れてきていた。

亡くなった友人の遺骨を抱えて飛び出す一人の女性の話である。このお話、私はとても好きなのだけれど、ポスターがとてもとても良くて、ア〜…と思いながら眺めていた。

 

「遺骨」

骨。いなくなってしまった人。その記憶のことについて考えながら仕事をしていた。

病院で、普通は人は「生死について考えて生活をしないんです」と言われて、嘘じゃ〜んと思ったことは記憶に新しい。そして、それが私にとって目から鱗のような、みんなそうではないの?という気持ちになったこと。

私は常に生きること、死ぬこと、終わりを迎えること、そして、骨、魂、それらにまつわる色々を考えることが、好きなのだと思う。自分の生死について考えることもあるが、私はある種の人の定めみたいなものを信じていて、いつどのタイミングで、何で、人がいなくなってしまうのかはわからないし、明日かもしれないしずっと先かもしれない。でも、それは決まったことなのだと勝手に思っている。

 

小さい頃、初めて身近な人がが亡くなった記憶は曽祖母の時だった。私が小学二年生の頃だ。

普通は、亡くなった後、そのご遺体は自宅に置かれる。けれど、私がそれを嫌がった。家に息もしていない、空の器になってしまったような、曽祖母の体があることが怖くて、曽祖母は早々に葬儀場に運び込まれた。

棺の中に入った曽祖母の顔は、小さな扉を開くとそこにあった。「ひいおばあちゃんに挨拶をしておいで」そう言われて、しぶしぶ母に手を引かれて見に行った。記憶の中の痩せこけた曽祖母の姿は、顔色良く整えられていて、頬は膨らんでいた。どうして膨らんでいるの、と聞いたら綿を詰めるのだと言われ、動かない人形のようになってしまった、その姿がとても怖かった。

香る線香の匂い。夏だからまだ耐えられたけれど、その匂いがとても嫌いだった。お通夜のあと、親戚で食事を囲むのも、ジュースがあるよ、お寿司があるよ、と言われてもとてもじゃないが、あそこに人とも人でないともわからない曽祖母がいるのだと思うと、家に帰りたくてぐずったことをよく覚えている。

その後、大体のご遺体は火葬される。燃やすってなに?全てがわからなかった。骨を拾うという行為も、父に手を添えられて拾ったが、何をさせられているのだろうと思った。

そして、曽祖母は小さな器の中に収まった。実家の仏間にはぼんぼり(光続ける提灯)が立てられ、これは何だったのだろう、と思い続けた。

 

そのあとは立て続けに母方の祖父、それから父方の祖父が亡くなった。

一度葬儀を経験した私は、こういうもんね、とわかっていても、やはり何でもない、とにかく「空になった」人を見るのが怖かった。母方の祖父は、口に綿を詰めると、顎が弛緩して次第に開いてくるのも恐怖だった。じいちゃん、顎が……花を添える時も開いていた。

 

母方の祖父は、パーキンソン病であった。認知症も併発しており、私が最後に見た祖父の姿は、日常の習慣の全てを忘れて、かつて曽祖母が寝たきりになっていた家の離れの部屋から、タオル片手に全裸で祖父が昼間に現れた姿だった。

祖父は私のことをとうに忘れていた。

声をかけても反応がない。それでも、筋肉が弛緩していて不安定な祖父が一人でお風呂に入れる状態などではなかった。慌てて二階にいる祖母を呼んだ。その後のことは、覚えていない。

かつて、私を確かに知っていた人。あんなにも優しく私に触れた人。一緒に遊んだ記憶。最後に名前を呼ばれた記憶ははるか遠く、私だけが知っていること、それがとても悲しかった。病気なのだと理解していても、それでも、私の知る祖父とはまるで違うその姿。祖母は介護に疲れ切っていたと思う。その当時のことを今でも話すことはないけれど、自分のことすら曖昧になってしまう彼を、祖母はどんな気持ちで見ていたのだろう、と今でも思うことがある。

そんな祖父も、骨と灰になった。

一番覚えているのは、骨を拾う時に、祖父の喉仏がとても綺麗な形をして焼け残っていたことだ。祖父の喉仏は、私のよく覚えている姿の中でも、しっかりと声を震わす大きさをしていた。それが、こんな形になるのだと、私は感動したことを覚えている。

曽祖母の時は泣かなかった。よくわからなかったからだろう。でも、祖父の時は涙が出た。色んな気持ちがないまぜになり、裸で台所を横切ってお風呂場へと向かう祖父のことを何度も何度も思い出した。

 

父方の祖父は、ハーゲンダッツが好きだった。もう食べ物もそろそろ、という時、兄と父とお見舞いに行って、溶かしたハーゲンダッツのアイスを祖父に食べさせた。それも、悲しかった。どうしてこんなことをしなければならないのだろう。祖父はおいしい、とあまり呂律の回らない口元でそう言っていたけれど、私はこんなことをしなくてはならないなんて、と泣きたい気持ちだった。良いことをしたのだろうか。今もまだ、わからない。元気になってね、なんて言えなかった。だって、彼はもう、私の知らない場所に向かおうとしているんでしょう?

子どもだからわからないなんてことはない。わかるものは、わかる。

祖父はクリスマス近くに亡くなった。冬場の葬儀場は、私にとって息苦しくてたまらない場所だった。蒸せ返りそうな線香の匂い。知らない人になってしまった祖父。父方の親戚と折り合いが悪いこともあり、吐き気がずっと止まらなくて、私はお経の上がる式場の外で、じっとそれが終わるのを待った。例に漏れることもなく、父方の祖父も灰と骨に。

花を添える時に泣いたのを覚えている。ここにいない。それだけがわかる幼さがあった私にとって、こういった儀式は、理解からほど遠い何かだった。

 

こうして三度、人を見送り、それからしばらくは顔も知らぬ祖母の母、後妻であったという曽祖母の葬儀にも参加したが、縁遠いこともあり、親戚のおばさまたちに会うイベントで、この時は高校生だった。お経が今までに聞いたことのないほど、唱えている住職の人が高齢で、今にも息絶えるのではと思うもので、笑わないようにするので必死だった。あんなお経ある!?とみんなで騒いだが、こうも雰囲気の違う葬儀なんてものがあるのかと驚いた。

 

それからも何度か、人が灰になり、骨になっていく姿を見送った。

これは、血の繋がった人たちではなかった。初めて、そばにいる誰かがいなくなってしまうということを経験して、でも、もう年齢も重ねて幼さはどこかへ置けるような、そんな年齢となってくると、もう、全てが不思議だった。目に焼き付けておいた方が良い記憶。これまでのことも何も忘れてはいないけれど、それでもまだ、覚えていたいと思うこと。

 

そして、大人になってから私は、父方の祖母の葬儀に参加することになった。

連絡は早かった。もう駄目かもしれない。危篤状態が続いているから、一度顔を見に来てほしいと両親から連絡が届いた。

最後に会った祖母は、デイサービスに参加している姿だった。父と二人会いに行った。祖母はまだしっかりと喋れていて、「あんたのええ人に会いたかったなあ。おらんの?」と、言われたことが記憶に残っている。そういうことを私に言う人ではなかった。だからこそ、涙が出そうになるのを踏ん張りながら、「できたら必ず紹介する」と約束した。私はいつも置いていかれる側だった。置いていく人にも、思うことはあるのだと、初めて知った。

 

祖母は、結局私が実家にいる間、顔を見に行ったその日はまだ生きていた。管だらけになって、何も喋ることはできないけれど、そこにいる祖母。小さい時に感じた怖さはなかった。ただ、随分と体が小さくなって、細くなってしまった彼女の手が、こんなにも頼りなかっただろうかと触れて。

けれど、一人暮らしの家に帰ったその翌日、訃報が届いた。

母は、父方の祖母との折り合いが良くなかった。それもあって、なぜか私は父の手伝いを色々とすることになった。こういう時は、こういう段取りで、これはこうして…親戚のこれはこういう風に確認して…ちょっと待てい!なんぜ私がこれを!と思うようなことまでやった。

母よ、亡くなってもまだ、思うところありかい。そう思ったが、それは母である彼女のもので、私は一つ世代を隔てている。彼女のものは、彼女のもの。それをどうこう言う資格は私にはないのだ。

 

私は父に寄り添って、早めに葬儀場に入っていた。顔を見てくる。誰に言われるわけでもなく、私は自らそうした。

やっぱり、変な気分になった。

小さい頃の時ほど、怖さや不安はなかった。でも、そこには確かに「何もない」という感覚だけがあって、人が息を止めること。機能しなくなること。魂がそこから離れたこと。それだけがわかる気がした。

誰もそこにいなかったのをいいことに、私は祖母の顔に触れた。今まで一度も、したことがない、いなくなってしまった人に触れること。

冷たくて、ひんやりとかたくなったお餅を触っているような感覚だった。危篤状態になった祖母の手とは、まるで違う感触。そうか、これが「いなくなる」ことなんだと思って、その時だけ涙が出た。あとは、葬儀中もどんな時も涙が出なかった。

骨になった祖母。お骨について、火葬場の人が説明をしてくれるのを初めてちゃんと聞いた。骨壷に足から順に骨を拾って入れていく。そして、最後が頭。そして蓋をして、これを最後にお墓に入れるんです、と。

そうだったのか、と思いながら、猫背の祖母の背骨を入れる際、折って入れましょうと言われて、お、折る!?と動揺したが、兄と二人で協力して折った。幼き私よ、君は大きくなって祖母の骨を折っていますよ…と妙な背徳感に包まれつつも、二人で骨壷に骨を収めた。

最近、私は自分の後ろ姿があまりに猫背なので、祖母みたいに最終的にはなるんだろうなと思っている。本当はもっと祖母の背が高かったことを思うと、大変そうだったから気をつけたいな、とかそんなことを思っていた。

 

父方の親戚連中、そして父の兄弟仲はかなり複雑だ。一言で言うと、良くない。父の兄である叔父に久しぶりに会ったが、その時私はまだ喫煙者で煙草を吸いながら叔父と久しぶりに話した。叔父には子どもがいない。「私に子どもができたら叔父さんとこに連れてくよ」と言ったら、叔父は初めてその日笑った。楽しみにしとるわ。父と兄弟たちの間に何があるのかはわからない。知らないが、私はそれでいい立場なのだ。

私は結局、四十九日を終えて納骨する日も父とたった二人で立ち会った。お墓の下を開けるのを初めて見て、その中に曽祖母、祖父の骨壷が入っているのも初めて見た。お墓ってそうやって開くんだ…力技…と思ったが、先祖代々の骨がそこにあることに、なぜか安心した。正しい場所、正しい位置、還るべき場所。

どこにでもある、当たり前の儀式。でも、その人たちはもう「ここにはいない」

 

父方の祖父の墓前では、いつも私と父は煙草を吸う。祖父が喫煙者であったからだ。煙草の煙と線香の煙が混ざり合う中で、私だけが父の吸っている煙草が祖父と同じものであることを知っていた。いつ変えたのかは覚えていない。

骨になる、灰になる。煙のようにいつか立ち消える。

私もいつか、そうなる。

 

母がその昔、私がまだ小学生だった頃に急に話しかけてきたことがあった。

その日はこたつに入ってうとうととしていて、母も何かをしていて、それでも突然のことだった。母の質問はこうだ。

「人生で一度しか経験しないことって何かわかる?」

私は微睡みの中で、変なこと聞いてくんな、と思いつつ、結婚?とかそんな返事をした。母は、何回もする人もいるかもでしょ。と言って、その答えを教えてくれた。

「生まれることと、死ぬことよ」

あ〜、と思った。なぜ母がそんなタイミングで、私にそんな話をしたかというと、父方の祖父が入院した前後だったように思う。

「生まれてきた時はみんなに喜ばれる。だから、死ぬ時もみんなにちゃんと見送ってもらえるような、そんな人生を送れるように生きるんだよ」

夢だったのか、本当だったのか、今でも曖昧だ。けれど、母のその急な問いと、与えられた答えを私はずっと覚えている。

 

たった一度。そこにある瞬間、いなくなった瞬間。肉体が、骨になり、灰になるその時。

それがいつかはわからない。明日かもしれないし、ずっと先かもしれない。その日がどんなに天気の良い日でも、悪い日でも。

 

私はつい、日々の中で考えてしまうのだ。

骨になり、灰になるその日のことを。