やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

笑いのセンスの話


最近、友人と話していた時に、笑いの感覚の話になった。

私はあまり重要視をしてこなかったのだが、本当にごくごく最近、笑いのツボやセンスが似ているということは友人やパートナーにおいて重要なのでは…と思い始めた、という話だ。

自分が関西出身というところも大きいのだろうが、「笑い」について気にすることが多いなと思ったのだ。

 


昨日幼馴染が二人いると書いたが、その二人ともの血液型がAB型であることに気がついた。

あんまり血液型の傾向や相性は信じていないのだけれど、思えば二人ともが私とはずいぶんと違う人間であるように思う。

驚きが多いと言えばいいのか、え!?そんなことある!?みたいな驚きの玉手箱のような二人だ。

 

幼馴染の話を書いたあと、約束をしていたもう一人の幼馴染と久しぶりに通話をした。

彼との付き合いは小学生からで、小中と同じ学校に通い、高校、大学は別だった。成人式で小学校の同窓会の幹事をすることが決まっており、それから連絡を取るようになった。地元に帰省すると、連絡を取ってもう一人の中学からの共通の友人と一緒に三人で深夜のファミレスに行ったり花見をしたり、カラオケに行ったり、共通の友人の家でスマブラをしたり。

車をすでに持っている年齢だったから、大抵は幼馴染か共通の友人が車で迎えに来てくれることが多かったけれど、自転車でも移動可能な距離にお互いが住んでいたので、幼馴染と自転車の二人乗りで移動することもあった。

のくまちゃんのように、同性ではないため話せること、話したいことはそれぞれだったように思う。けれど、幼馴染の彼や、共通の友人の話(共通の友人が現在付き合っているパートナーを射止めるために試行錯誤した幼馴染と友人の話は少年マンガのような熱さがあった)マンガのように面白いことが多かった。

 

そんなもう一人の幼馴染。名前を仮にハルクとする。(ものすごい久しぶりに会った時、妙に体が鍛えられており、どうした!?と思うほどムキムキになっていた)

ハルクと話していると、最初はまあ近況の話で、私の鬱々とした話が続いた。ハルクは「そうなんかあ」とか「それってこう?」とか、色々聞いてくれていた。結果、まあ、人生は何があるかわからんもんなということに落ち着いた。

久しぶりに連絡してくれたよな、何で?と聞かれて「いや、別に折々に思い出すことはあったけど」と言ったら、「折々?」と、彼の中で私の発言した「折々」という単語が引っかかった。え、言うことあるやろ。と思ったけれど、普段の会話では折々は使わないのかもしれない。

私の「折々」が気に入ったらしいハルクは、通話の中でずっと折々をこすり続けた。

あまりにこするので、めちゃめちゃこするやんか、と言ったらけたけたと笑っていたので「使いたかったら使ってもええよ」と返すと「もらうわあ」と楽しそうにしていた。そんなに面白くないぞ、折々は。滑っても文句言うなよ。

この「こする」も、ある意味方言のようなものかもしれない。面白いと思ったことやネタを言い続けること、やり続けることを「こする」と言う。関西人、このこすりで笑いを引きずることがあるのだ。

 

電話の切り際も、ご飯を食べてから寝るという彼に、夜も遅かったので「食べんの?今から?」と聞いたら「別に赤ちゃんみたいに食べながら寝るんちゃうで」と返ってきた。いや、別にそうは思っていない。そんな夜遅くに食べたら眠りにくいんじゃ…と思っただけで。そういえば、彼は健康の象徴のような人間である。問題なさそうだった。

同い年の幼馴染の男がうたた寝しながらご飯を食べているところを想像した。
幼馴染のハルクが?むにゃむにゃ言いながらご飯を食べている?めっちゃ嫌だった。

「寝ながらご飯食べてるハルク見んの、きついな」正直な感想だ。ハルクはまたけたけたと笑った。「そやな、むにゃむにゃ言うて、俺が」「パートナーでもギリ可愛いと思えるかどうか」二人でしょうもないことを言って、ひとしきり笑って電話を切った。

最後も「また折々に連絡よろしく」と折々をこすって言ってきた。忘れていたタイミングだったので、思わず笑ってしまった。このやり方。忘れた頃に使うやつ。でもマジでしつけえ〜〜〜〜こいつ〜〜〜。

 

こうして電話を切って、やっぱり面白いなと思った。

 

どんな人も面白い人は本当に面白いのだけれど、地元や関西の友人と話していると、面白いなと思うことが多い。現在私は関東に住んでいるのだが、たまにこうして関西の友人たちと連絡を取ると、間合いだとか、言い回し、返し方に感心する。

 

語彙力の引き出しが、「笑い」「面白さ」に特化した引き出しがあるように思う。関西の人間が全員が全員そうであるというわけではない。ないけれど、そこにレーダーを張っている人間は、その部分で色んなものを拾っているような気がするのだ。

お笑い芸人がずっと面白いのは、多分ここなんじゃないかと思う。

笑いのパターン、これなら人は笑う、この言い回しはいける。こんな分析をしている私はど素人のただの人間なのだけれど、面白いは大切にしたい部分である。

また、話し手の手腕でも面白さの度合いは変わってくる。

 

私の友人に、オチを先に言ってしまうことを気にしている友人がいる。

本人も「もう先に言ってまいたくなるねん」と言っていて、それはそれで何で?を掘っていくと大体面白いので私は気にしたことがなかった。そこが彼女の面白さでもある。

こんな時代なので彼女を含めた大学の同級生とリモート飲み会をすることがあるのだが、その時に別の子が「あの話せんでええのん?」と、彼女を促したことがある。

その話を聞いた私は内輪ネタであるものの、案の定めちゃくちゃ面白くて笑った。そのあと彼女は「この話、面白く話したいから練習してん」と言っていて、そこまでして!?と思って私はそこに一番笑った。

練習までして面白く話せるようにする彼女のことを好きだ〜と私は思ったが、確かに練習したと言われると、いつもより話し方が上手かった。

 

こういう、「笑い」「面白さ」は重なった瞬間、爆発的な力を放つことがある。それを聞くなり、見るなりするだけで、一体感みたいなものが生まれている気がする。

 

私は人と話す時、この笑いのツボを探り探りでいく。

話し方やニュアンスで、あ、これ違うかったんや、とか、これが大丈夫なんや、などを確かめている。性分だ。

何もしなくても面白い天才みたいな人がたまにいる。思考や一言の発言力があまりに面白い人だ。こういう人を見ると、うらやまし〜と思う。私が自分のことを地で面白いと思っていないからだ。ここまで書いておいてなんだけど、こんなに面白いかどうかを気にしてるの、どうかしている。でも、面白い人間でいたいじゃん。いさせてくれよ。

 

笑いとして面白いものを人に勧めるときは、人を選ぶようにしている。

この人は絶対このネタを笑ってくれると思う。と思ったり、ネタの種類で大丈夫なものと大丈夫じゃないものを選定した上で、見てくれよ〜と連絡する。

見てもらって、感想をもらった時に同じポイントに反応していると、やっぱそこいいよね!?と思う。でも、めちゃくちゃ面白いものは誰がどう見てもそこがピークになるようになっているので、個人の好みに関する部分で重なっている人を選んでいるように思う。

 

お金の価値観が違うのもしんどいと思うけれど、それと同じくらい笑いのセンスが違うと、私はたぶん困ってしまうと思う。

それはそれで興味深いので、ふんふん話を聞くこともあるが、その時に得る気持ち良さは、「笑い」や「面白さ」の重なった瞬間とは少し違う。

 

私は、面白いと言われるのが嬉しい。この面白いは人間的面白いより、笑いのセンスに関する面白いのようなものだな…と書きながら気づいた。

人間として面白いも最高の褒め言葉だし、ずっとそういう人間でいたいけど、そのまるっとした私というコンテンツの中に、この笑いのセンスがあると尚良いなと思うのだ。

 

日常にある面白くないことも、面白いと思えるようにできるかどうかは、この日記を書き始めていても常に意識していることだ。ありのままで起きたこと、受け取ったことが最終的に行き着く地点。オチの部分だ。

取り留めもないことが、面白くなったり、感じ方が変わるといいなと思うのだ。

センス・オブ・ワンダー。私の好きな言葉で、少し意味は変わってしまうけれど、私の言葉や視点で、何かが不思議に思えたり、感動できたり、面白く思えたり。そういう見え方が変わるといい。

 

笑いのセンス、ずっと磨いていたい。お笑い芸人でもないけどね!