やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

食べることの話


あまりの顔色の悪さに退勤を命じられ、ヴァー!!と思いながら帰路に着いた本日。

どうにもこうにも身体が思ったようにいかないなと罪悪感に苛まれている。先生に罪悪感は感じなくていいんですよと言われているし、職場でも体調が悪い時はそれでいいと言われているけれど、なんだ、なんだこれはーーーーッ!!

天気が悪いのが良くない。大体のことは天気のせいにする。


さて、そんなこんなで顔色の悪さから退勤を命じられて帰宅した私なのだが、休憩時間にご飯を食べる元気がなくて、食べれないよ…になっていた夕食を食べることにした。ひとまず。

職場に復帰してから散々言われているのは、痩せたね!?という言葉で、私もそう思う。こわくて日常的に体重計に乗らなくなって長いのだが、七月に実家に帰った際におそるおそる乗った。

自分が史上最高に痩せていた時は大学二年生の頃のブラックなバイト先で働いていた成人式前後なのであるが、その時とあまり変わらなかった。むしろそれよりも少ない。

服を着ていてこれ…ということは…とやっぱり数字を見てゾッとしたので今頭の中で数字は「タイ…ジュウ…?」と体重の概念を知らないモンスターになっている。

病気をして痩せた祖母と数キロしか変わらないことも知り、祖母はしっかり体重が増えていてえらいな…と思った。


こんな感じでかなり体重に対しては痩せすぎていることに困っているのだが。私は食べることがとても好きだ。

この、「食べること」だが、私は今でこそ本当に好き嫌いがないのだけれど、幼少期は好き嫌いがとにかく多い人間だった。人参、レタス、きゅうり、玉ねぎ、なす、とうもろこし、魚、もうそれはありとあらゆるものが嫌いで、お寿司はいくらか鉄火巻きしか食べない、和食が嫌い、中華料理も嫌い。とにかくもう好き嫌いが多かった。母は多分苦労したと思う。

実際、私の人参嫌いは母に巧妙に細かくすり潰された人参が肉団子に練り込まれていたことを、幼稚園から帰ってきて暴露されて「あたし、人参たべたの!?」とショックを受けた。じゃあ大丈夫なのかも…。幼少期から割と平気かも…と思うと平気になれる性質だったのが幸いである。


私は実家のご飯を一番この世で美味しいものと考えている。本当に美味しい。人に食べてほしい。と思って、何回か友達を呼んだことがあるレベルだ。食ってくれ、私の家のご飯を!!気持ちだけは「わたくしのシェフの作る料理は逸品ですのよ」というお嬢様ムーブだ。

それから、家族で旅行に行くとなると、美味しいものを食べることを目的にしていることが多い。

母と父は、私と兄が家を出てから二人で何かを遠方に食べに行くことをしたりしていた。娘の私からすると、旅行の間、一時間に一度は口論になる二人が何か目的を持って片道数時間をかけてご飯を食べに行くことに驚いたのだが、そこにまた「食べること」のすごさを感じた。

私の知らない間に、美味しいものを食べた二人は、「こんなものを食べたんだよね」と、帰省すると報告してくれたり、旅の途中に連絡をくれる。私は大体食いっぱぐれることが多く、悔しい思いをするのだが、めいっぱいのイイネのきもちを込めて返信をしている。


小さい頃は好き嫌いが多かったせいで、「食べること」に対してあまり意識が向かなかった。けれど、今はなんでも食べれるようになって、その楽しさや幸せに気がついた。

大体の人は、私の体型を見てそんなに食べないだろうと判断をする。ところがどっこい、ご飯が美味しい家庭でふくふくと育った私は本当に良く食べる。

よく私と遊んでくれて、家に泊まらせてくれる友人宅では「これ多いからまるちゃんのぶん」と配膳の塩梅をしてくれる。そのたびに私はふふ、と笑いそうになるのだが、そのうえで「足りなかったら◯◯もあるからね」と言ってくれたりもする。人様の家のエンゲル係数を上げて帰る客人。

朝ごはん用にパンを買うと、それも大体笑われる。食いしん坊パンと彼女は呼ぶが、私の選ぶものが大体コロッケとかが挟まれているパンだからだ。わんぱくパンとも言われている。


でも、私は知っている。

自分のために料理をすること、食べることは、私にとっては必要最低限の生活のことでしかなくて、私が好きな「食べること」は、人と食べる食事のことなのだ。


自分のために作っていると好きなだけ食べれて最高!という気持ちで、いつでも何かが家にある状態にしている。でも、それは楽しいのかと聞かれると、人間の欲求を満たしているだけのことに近い。

人と、何でもない話をしながら食べたり、「美味しいね」とか、そういうことを言って、誰かとご飯を「食べること」が好きだ。

自分の作ったご飯を美味しいと感じられるのはしあわせなことだな、といつも炊き立てのご飯を食べていて思う。でも、でもなあ。

誰かが作ってくれたご飯の方が、美味しい。それがもし、一緒に作れて、食べられるものなら、もっともっと楽しくて、幸せだと知ってしまっている。


前は週末に作り置きを一気にするようにしていたが、今はもうたくさん作るのもなあ、とこの人が言うならそうよ、という気持ちで土井善晴先生の一汁一菜の考え方で生きている。味噌汁と、何か一品。野菜はたくさん。お米は水が濁らないまで綺麗に研ぐこと。それだけでも、体はちゃんと美味しいをインプットしてくれる。

そんな私の「食べること」は今日もほんの少しだけ寂しくて、美味しいものだった。