やわらかい

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天才の話

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最近、天才とはなんじゃらほい、と考えている。

天才。辞書を引くと「生まれつき備わっている、並み外れてすぐれた才能。また、そういう才能をもった人」

生まれつき備わっている。備わっているか〜とこの辺りを深掘りしていくと、これには学術的分類や体系があるらしく、そこまでの深淵を覗きたいわけではないため、あっさりと私はインターネットの海から顔を出した。岸へ戻れ…。

 

天才。

その言葉だけを聞くと、なんというかムズムズする。何を想像するかと聞かれると、突出した何かの才能を持っている人。という印象が私にはある。

 

あらかじめ与えられたものだとして。天賦の才ってやつは、最近凡人と天才のような話も何かと題材に取り上げられることも多く、凡人が天才を超えていく。といった小説や漫画など、そういうお話も少なくはないように思う。

そして、そこには大体、と言ってしまうとちょっとした語弊があるので、よく見るのは「続けられることこそ才能であり、あなたはその道の天才なのです」という言葉。

そうだな〜と思う。

なんだかんだ、続けている人の強さって、付け焼き刃の才能やセンスではかなわない、分厚さみたいなのがある。

熟成肉と、とりあえず品種は良いとされている牛…この喩えあんまりうまくない気がするけれと、まだ加工前なんです!でも美味しい肉ですよ!ということは保証されている。というような違い。

 

この続けること、努力のできる天才・才能はさておき、天才、そう呼ばれる存在に、私はなぜか途方もない孤独を感じてしまう。

 

人間誰しも孤独であるのは前提だ。

どれだけ誰かのことを愛おしく思っても、どれだけ理解したいと思っても、全てを理解することや知ることは不可能で、それは自分のこともそうだ。

もしかすると、こうだ!と思っていたことが思いがけない出来事で、明日にはひっくり返されてしまうこともあるし、何せ思考は流動的で、ずっとずっとそう、というのは難しい。あくまで、これは私の持論なので、私がそう思っている、という話なのだけれど。

 

でも、そういう孤独さとは、また違う。

誰もが抱えている孤独とは違う、どこか遠いところにいる感覚。私にその感覚を覚えさせたのは、多分、私の一番近くにいる兄という存在ではないかと思う。

 

家族の話でも書いたが、私の兄は、歩く辞書。わからないことを一聞くと、百返ってくるようなそういう知識の引き出しを持っている。

一方で、兄自身も言っているコミュニケーションが苦手だという側面。

苦手というか、なんというか。共通項のない人に対して、どういう話をしていいのかわからない、が正しいように私は思っている。

 

とにかく、兄はべらぼうに頭が良い。

塾や予備校などに通わず、いわゆる有名大学に進学した兄。順位や何やらが目に見えるようになる中学生、兄のすごさはそこで実感することになる。

なんかよくわかんないけど、とりあえず学内順位は十位以内。高校に入ってもそれは変わらず、全国模試でとんでもない順位を叩き出したり、センター試験では何ぞで満点を取ったとか取っていないとか。

 

最早、身内であるのに都市伝説のようなものだ。

半信半疑でこうだったの?と聞くと、想像の五百倍はすごい返答がなされるので、最近は怖くてあんまり聞かないようにしている。

 

とにかく私にとって、兄は兄。

すんごい頼りになるというわけでもなかったけど、小学生の時に泣かされている私を兄の友人が見つけ、兄を連れてきたことがあった。

兄は「何してくれてるんや!こいつ泣かしてもええことないぞ!」と笑いながら言っていた。

どんな助け方やねん。あと、なんでわろてんねん。

でも、上級生ってだけで効き目は抜群。

兄はそそくさと同級生と姿を消したが、しっかりと担任の先生にチクってくれていた。そういうお兄ちゃん。

 

本が好きで、一つのことに集中したり好きなことに関するものはとことん追いかける。読書量もすごければ、記憶力もずば抜けていた。

私は外で走り回って門限破って、家の中に入れてもらえなくなるような、自由奔放人間だったため、兄のことはすんげ〜くらいにしか思っていなかった。

関西の野原しんのすけ。すんげ〜!

 

中学生になってから、兄はあまり私と遊んでくれなくなった。

家でも部屋にこもっていることが多かったし、定期テストがあったのもあるだろう。そして何より、兄は学校で「いじめ」にあっていた。具体的なことは聞いたことがない。多分、しょうもないことがきっかけだったのだと思う。字が汚いとか、運動が極端にできないとか、落ち着きがないとか。

結構、漫画とかドラマで見るようなエグめのこともされていたらしい。

が、家にそれを持ち込むことは少なかった。特に、私の前ではそんな話をしなかった。だから、私は知らないのだ。

母は、得意なことで見返せばいい。出来ないことで戦う必要はない。そう言ったらしい。

だからなのか、兄は勉強することをやめなかった。自分の得意なことで、どんなに周りに何を言われようとも、確固とした覆せない目に見える結果を残した。

ただ、その話を聞いた時、兄が欲しかったのはそういう言葉だったのだろうか、と私は思った。

私なら、きっと何があっても味方だよ、というような言葉や、あなたを守るからね、と言われた方が嬉しいし安心できたように思うからだ。でも、実際にどうにかできるのは自分ただ一人。兄は、冷静でいて、何かをその時諦めたのだろうか。そんなことを思ってしまうのだ。

長い終わりのない海を、一人、船で渡るように。

 

兄との距離が、この時少し遠くなったように感じていた。

やり取りも少なかったし、不思議なことにすっぽりと記憶が抜け落ちている気がする。

 

それと同時に奇行も増えた。

リコーダーの掃除する棒をストーブで溶かして燃やしたり、ティッシュを延々と噛んでいたり(ちなみに鼻セレブは甘いらしい。一生噛むことないからわからんけど)部屋のシャッターを下ろす時に大声で叫んでから閉めるのを日課にしたり。

だけど、私も私で、それが私の兄という生き物なので…と思っていた。変だけど、ま、そんなもんじゃない?

 

大学生になって、好きなことをやり始めた兄は、自分の周囲に自分と同じ学力で、同じような興味を持っている人間に出会って、楽しそうに生活していた。

そこに私が大学進学をきっかけに同居することが決まった。

兄は快諾。私と兄の間には、なんとなくお互いにはあまり干渉しないというほどよい距離感があったからだろう。実際、生活が始まるとお互い好き勝手なもので、自由な生活が始まった。

幸い、私も兄もアニメやマンガが好きで共通の趣味があることで、あれやこれやと会話をしていた。

 

そんな日々のある日、大学院に進学していた兄が単位の危機と、学校に全く来ていないという連絡が入った。確かに家にはずっといたけど…朝早くには家を出る私には目から鱗の出来事だった。

 

兄は教授との折り合いが悪かったのだそうだ。

兄は基本的にあまり他人を信用していない。奥底に、何をされるかわからないという経験があるからだろう。折り合いが悪くなってしまって、どんどんと兄は内側に引きこもっていった。

自分がやりたかったこと、好きなこと、こうしたいと思っていること。それに対して理解が得られないこと。同級生の友人が、その教授からのパワハラで大学を辞めてしまったこと。目に見えて自分が弾かれていった、そう話した。

 

兄はまた、どうしようもない孤独にさらされたのだ、と思った。

私には途方もなく思える、孤独。もし、この時兄に一人でも良い理解者がそばにいれば、と。私のわからないことを補う、そんな人がいてくれれば。

 

母との連絡も絶った兄は、世を辞す内容の長文のメールを母に送った。

私に転送されてきたそれには、「自分一人がいなくなれば、解決することがたくさんあります」そう書かれていたことと、自分のお金は全て妹である私に使って欲しい、「丸は器量がよく、人望もあるから、きっとうまくやります」

そんなメールで褒められたとて、嬉しいわけがなかった。

読んですぐ、私はそのメールを消した。

 

兄は、結果を得るために自分の努力を怠ることのない人で、それができない人を、理解できない。

どうしてこんなこともわからないのだろう。その後塾の講師を始めてから、失踪するにいたるのだが、その時もそう言っていた。

自分のできていたことが、誰にでもできるわけではない。それを知っていても、そこを糧にして生きていた兄にとって、それを認めてしまうことは限りなく自分の存在意義を揺るがすものなのだろう。

 

兄は人として信頼できない人に対してかなり強い言葉を使う。それを聞くたびに私はこの人でなければ言えないなと思うし、笑ってしまう。

こんなことを言うのは家族の前くらいだが、私も私ではっきりと言うことにしている。「捻くれてんなあ」兄は同じように笑う。「頭が良いか、人が良ければこうは言わへん」

 

兄の隣は、いつも空白だったように思う。

警戒心が高く、自分に対しての自負、得てきたもの、なかったもの。それを持ってしても、人に執着することができず、彼の親しい人を知ってはいるが、どこかいつも一人きりで世界を浮遊している。

 

兄は失踪した仕事のあと、病院で本格的な診療を受けることになった。

検査でわかったことは、兄にIQ140以上あること。頭の回転の速さに対して、体が追いついていかない。そして、空間把握能力が低く、絵を描くことが苦手で、物との距離感が取れず不注意になること、など。

色んなことに腑が落ちて、そのうえであらためて兄にとってこの世界は少しばかり生きづらいものだったのだなとも思った。

 

こと、これに関してはスポーツや勝負事の世界における場合の話ではない。

 

けれど、兄は確かに人より、私より、はるかに頭が良く、知能があったことや、それを納めるだけのたくさんの引き出しを持っていた。

知らず知らずのうちに溜めていくことができるだけの容量が、他の人よりうんと多いのだろう。

兄の口からは、兄ほどの存在でなければ言えないだろうなというセリフがよく飛び出してくる。一見すると、嫌味な空気を纏う言葉も多い。けれど、私にはどこか寂しく遠い距離から届いた声に聞こえるのだ。

 

哀れみはない。彼を前にして私が嫉妬をすることは、兄妹である以上、比較対象にされればあった。ただ、絶望はしなかった。理解ができないとも思わなかった。

私が想像するのは、彼の隣が空白でなかったなら、それはどんな世界だったのだろうか。

私が、そう思うだけの話なのだ。

 

兄に関することは私の憶測でしかない。

私の前で吐かれた弱音など、ほぼない。知られたくなかったのもあるだろうし、私がそれでも兄を「お兄ちゃん」として接し続けてきたこともあるだろう。

 

彼は、私にとって一番身近にいる天才と呼べる存在だ。

ただ、生きる術として天才となった彼。生まれ持ったもの、そのあとに得たもの。そして、どこか欠けてしまったもの。

天才。この言葉で表現される人たちについて、私はいつもどこか複雑で、言いようのない気持ちを抱いて眺めている。