やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

煙草の話

私は長い間喫煙者だった。

という過去形なのも、コロナ以降喘息を再発して以来禁煙をしているため、過去形になる。


昨今、煙草については嫌煙家の方も多く、受動喫煙の問題であったり、そういうことから自由に店内で吸うことのできる飲食店はかなり激減していると思う。

肩身の狭い思いをして、身体に良くなくて、どんどん値上がりのする煙草を吸い続けて、良いことなどあるんですか?と、聞かれたら、そうねえ…と私はきっと思案して返答してしまうだろう。


よくある質問に、「どうして吸うことにしたの?」という問いかけがある。私も何度かされたことがあるものだ。どうして。どうしてだったかなあ。

私が吸い始めたのは大学生になってからだ。その当時、学内には喫煙所が点在していて、そこにはお決まりの面々が揃っているのがいつものことだった。名前は知らないけど、喫煙所で見る人だ。そんな覚え方をしていた人もいる。

そこには独特なコミュニティが存在していた。分野も違えば、年齢も違っていて、ただ共通項としてあるのは「喫煙者であること」。

それのみの共通項のもと、集まる人たちは様々で、私よりもずっと年上であった教授陣がそこにいることも珍しくはなく、他愛もない会話や、そこのネットワークで知れる情報などがあった。


私の周りには、喫煙者が幼い頃から多かった。

まず、父、それから同居していた母方の祖母。祖母は一昨年病気をしてから喫煙者ではなくなった。でも、九十歳になるまでは吸っていた。どんだけ元気なおばあさんだ。

母はどちらかと言うと、嫌煙家である。そうなったのにも理由があって、兄が物心つく前に煙草の吸い殻を食べてしまうという事件があったらしい。

以来、父は室内で煙草を吸うことを禁じられ、基本的にはお手洗いか、外で吸うことになっていた。

父が禁煙をしていたこともある。私が大学を合格した時に、禁煙していたはずのそれが解禁された。なぜ解禁。そう思っていたら、「お前が合格するまで吸わへんって願掛けをしてた」と言われた。どんな願掛けやねん。

その願掛け妙じゃない?と思ったが、まあ、父なりの思いやり…でもないか。思うところあってのことだろう。ということにしている。


そうして大学に入ると、私が一番仲が良くなって、遊び相手になってくれた先輩が喫煙者だった。

私は兄と二人暮らしをしていたのだが、兄の大学に近いところに下宿をしていたため、遅くまで大学に残ったり、朝の講義に行くとなるとかなりの移動時間がかかった。先輩の家は大学まで徒歩十分ほどのところで、気づけば居候のようにその先輩の家に泊まることがしょっちゅうになった。

先輩は、大体朝起きてからと、夜ご飯を食べたあと、縁側のような場所で煙草を吸っていた。室内には音楽が大体流れていて、私は彼女の横でぼーっとしながら、大学のあれこれやいろんな話をするのが日常になっていた。そうこうしているうちに、制作に行き詰まったり考える時間が欲しくなったり、一人になりたくなった時、煙草を吸おう、と思った。


喫煙所には独特なコミュニティがあった。最初はそれが嫌で、なるべくそこには近付かず、一人でぼーっとできる時間に煙草を吸うようになった。

行きつけの大学近くの喫茶店も、店内で煙草を吸うことができて、そこに入り浸っていた私は、いつからか飲み会の席や、学内の喫煙所でも人の少ない時間帯はそこで吸うようになっていったのである。

もちろん、身体には良くない。

でも、人と何かを共有している気分になれたり、普段自分が関わることのない人と話すとことになる、そんな時間なのだなと、居候をしているような先輩の家でぼーっと二人で煙に巻かれるのが好きだった。


良かったところ。

それで、なんとなく話し相手が増えて、気の合う友達や後輩、先輩ができて、他分野の先生とも親しくなったり、自分の学科の先生とゆっくり話す時間が増えた。大体は共通の知り合いがいて、私は美大に通っていたので、展覧会などがあると喫煙所に行って先生にDMを配ったりしていた。不思議な縁である。


大学院生になると、研究室の先生が煙草を吸う人で、同期もそうだったため、研究室ではいつも煙が立ち上っていた。飲み物みたいなものだろうか。それを片手に、普段よりも少し多めに会話が重なっていく。

時間を取られているなあと思うこともあった。喫煙所で知り合いに会うと、しばらくそこを離れることができない。制作が忙しい時は喫煙所にはなるべく人のいない遅くの時間や、気配を伺って向かう。でも、会えると嬉しい人もたまにいたりして、これは何なんだろうな、と思っていた。自分はそこで知り合いが増えた人間だったので、良かったことなのだと思う。


バイト先もそうだった。

大学院生になり、初めてのバイト先は居酒屋だったのだけれど、私はラストまで働くことが多く、休憩時間に吸っていいぞ、と父とほぼ年齢の変わらない店長によく休憩をもらった。店長はヘビースモーカーだったが、私はそこまでだったので、あざーす!と言いつつ休憩に行かないこともあった。ただ、お店が閉店時間に近づくと「好きに飲んでええぞ」と言って、閉店後は二人でテレビを見ながら煙草を吸いながらビールを飲んだ。

店長は、私より少し下の娘がいる人で、ついつい面倒を見たくなるのだと話してくれたことがある。店長は離婚をしていて、独り身だったのもあるのか、私はよくその人に可愛がってもらっていた。熱のある日に出勤したら、異変を感じた店長におでこをくっつけて熱を測られる。そのレベルで父と娘のような感じだった。距離感どないなっとんねん、である。

私はおじさんという生き物にそこまで嫌悪感もなく、ましてや父と歳が近いともなると、こんなもんよなーと思うことが大半なのだ。

働いている時は口数が多く、おどけたような人が警戒心もなく、私のような小娘と他愛もない会話をのんびりとしている。その姿を見るのもとても好きだった。


最近は色々難しそうだな、と思う。嗜好品だし、百害あって一理なしの理論もよくわかるし。飲食店で吸うことも難しくなってきて、電子タバコはよくても紙タバコは駄目なお店もよく見かける。


でも、私は時々思い出す。

何を話すわけでもなく、煙がふわふわと浮かんで、夜の学校や誰かの家の中でベランダ、縁側、そうした場所でただぼうっと煙を吸い込んで、吐いて。考える間をつなぐような役割をしていたのかもしれない。そこから始まる、くだらなかったり、普段は聞けない言葉が落ちてきたり。それがとても心地よい距離感にあったような、そんな感覚を思うのだ。


今はめっきり、そんな機会もなくなった。

大学生特有のものだったのかもしれない。大人になればなるほど、交わす言葉は飾られたものが多くて、ただそこで休憩をしているだけ。

でも多分、何かが始まることを待っている人たちや、共有している何かがあると思っている人たちもいるんじゃないだろうか。とか。


煙草の匂いが染みついた人の香りを嗅ぐと、あー、と思う。依存だと言われたら、そうだろうけれど、そういう人にもきっと煙草を吸うことのきっかけがあって、その時間に思うことがある人もいるのだろうな、と。


とはいえ、嗜好品。難しいよなあ、色々。と、職場復帰をしてから、駐輪場の隣に移動してきた喫煙所の隣を通りながら、そんなことを思っている。