ゆるやかに転がる話
ここ最近、私の周りの人たちがいろんな転機を迎えている。
新しい生活が始まる人、仕事を辞めた人、選択肢が幾多にもあって、人生の中で起きる数え切れない選択の中のたった一つ。そう言えばそうなのだけれど、ゆるやかな山を転がるように、はたまた登るように。
私も多分そのうちの一人なのだと思う。
半年前に実家に帰ってきて、全く予想もしていなかったことをしている。もし十年前の自分に会えるのなら、こんなことになっているよと話せば目を丸くして驚くのではないだろうか。
何年振りに会うだろうという人にも会ったりした。この数ヶ月で。ぎこちなさはない。会いたいと思った人たちだからだ。近況を話すように、今はこうなっていて、と互いの話をすると知らない世界の端っこを知ることになる。そんな仕事があるんだな、とかそんなことができるんだな、とか。
写真を見ながら老けたかどうかの話をしたりして、私は絶対に老けたぞという自信があって、でもみんなもそう思っているんだけど、こっちからしてみると変わらないですよ、と言い合う。変わったのは、選択の分岐で得てきたそれぞれの経験。優しさと、痛みと、どうしようもないこと、楽しかったこと。人生の話を聞くのはおもしろい。何を感じて、今ここにいたったのか。言葉にすることが苦手な人も、うまい人も、それぞれの物語があった。
実家に帰ってから、あんたは本当に家にいないねと言われる。でも、私はそれが怖い。自分から動かないと、何も知らないまま日々を過ごしていくことになるのが。テレビで見た、芸能人のゴシップ、本当かどうかもわからない政治の話、毎日変わらない話題のスライド。
何かに詳しくなったように見せかけて、何も知らないままの私。人生の中に置き去りにされていくのが怖いのだ。
人の人生に関われることができるなら、関わっていたい。そこが居場所にならなくてもいい。でも、人の生活の中に私がいると思えることは、そういった見せかけの安心から逃れられる唯一の方法のように思う。
私は世間知らずだ。
美大に行って、大学院まで行って、そのあとも大学の助手を勤めて、ある意味、変わらない環境やずっとずっと同じような人間がいる場所で、安心して生活をしていた。それがいざ、場所を変えたら、こんなにも色んなことにギャップがあるものなのだと知って、それに耐え切れなかった。もう少し自分がタフな人間なら、折れずにいただろうか。
仮定の話は、所詮仮定だ。でも、もう少し、耐えられていたら?また違う分岐点の上で世界を眺めていたかも。
だから、世間知らずだ、と思う。世の中のありとあらゆる生きていくために必要な手続きや、いわゆる「普通」と言われる、親の世代が営んできた生活のようなものを、知らない。
世間知らずだから、いろんな人の話を聞いては、こういうこともあるのか、こういうこともね、と私は知識を増やすしかない。私の人生の生き方は、人の参考に多分、あまりならない。似たようなケースなら多少は助言できることもあるだろうけれど。でもまあ、私もそんなにイレギュラーではないし。ほんの少し、自分のキャパシティのことが理解できてなくて、ちょっとだけ心が弱くて、そういう人。きっとたくさんいる。私の痛みは私のものだから、似ていても違うんだけど。
このまま自分の中で抱えているあれこれをガッチガチの固い岩にすることもできるだろうと思う。それなり年数は生きてきたし、世界遺産にでもなった?というくらいガチガチの岩もあるにはある。譲れないところ。
その岩はもう動かないし、心の中で世界遺産に認定されたものなので、そのまま保存するしかない。
でもまだ柔らかいままの水やら何やらを吸う珪藻土、もしくはただのスポンジ。転がるほど角の取れていない石たち。
そういう、まだ岩にもなりきらない、そもそも素材が違うそんなものたちを、なるべく心の中に転がしていたい。私を形成するものが、思い込みや刷り込まれたもののままではなく、誰かの岩を似たような造形で作ったものではなく。
あなたの話が聞きたい。私の話を聞いてもらいたいと同じくらいに。共感ができなくても良い。わからないままでも良い。でも、私は世界に置いていかれたくない。だから、教えてほしい。
私は私の岩を砕くなら、自分でする。あなたも自分でしてくれれば良いと思う。そこまでできるのは他人じゃない。だから、聞くだけだよ。お互いにね。ツルハシを常に構えて、人と対話しないでほしい。かたわらに置くものは、喉が渇いた時に飲む飲み物だけでいい。
ゆるやかに、ゆるやかに。