やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

ゆるやかに転がる話

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ここ最近、私の周りの人たちがいろんな転機を迎えている。

新しい生活が始まる人、仕事を辞めた人、選択肢が幾多にもあって、人生の中で起きる数え切れない選択の中のたった一つ。そう言えばそうなのだけれど、ゆるやかな山を転がるように、はたまた登るように。

 

私も多分そのうちの一人なのだと思う。

半年前に実家に帰ってきて、全く予想もしていなかったことをしている。もし十年前の自分に会えるのなら、こんなことになっているよと話せば目を丸くして驚くのではないだろうか。

何年振りに会うだろうという人にも会ったりした。この数ヶ月で。ぎこちなさはない。会いたいと思った人たちだからだ。近況を話すように、今はこうなっていて、と互いの話をすると知らない世界の端っこを知ることになる。そんな仕事があるんだな、とかそんなことができるんだな、とか。

 

写真を見ながら老けたかどうかの話をしたりして、私は絶対に老けたぞという自信があって、でもみんなもそう思っているんだけど、こっちからしてみると変わらないですよ、と言い合う。変わったのは、選択の分岐で得てきたそれぞれの経験。優しさと、痛みと、どうしようもないこと、楽しかったこと。人生の話を聞くのはおもしろい。何を感じて、今ここにいたったのか。言葉にすることが苦手な人も、うまい人も、それぞれの物語があった。

 

実家に帰ってから、あんたは本当に家にいないねと言われる。でも、私はそれが怖い。自分から動かないと、何も知らないまま日々を過ごしていくことになるのが。テレビで見た、芸能人のゴシップ、本当かどうかもわからない政治の話、毎日変わらない話題のスライド。

何かに詳しくなったように見せかけて、何も知らないままの私。人生の中に置き去りにされていくのが怖いのだ。

 

人の人生に関われることができるなら、関わっていたい。そこが居場所にならなくてもいい。でも、人の生活の中に私がいると思えることは、そういった見せかけの安心から逃れられる唯一の方法のように思う。

 

私は世間知らずだ。

美大に行って、大学院まで行って、そのあとも大学の助手を勤めて、ある意味、変わらない環境やずっとずっと同じような人間がいる場所で、安心して生活をしていた。それがいざ、場所を変えたら、こんなにも色んなことにギャップがあるものなのだと知って、それに耐え切れなかった。もう少し自分がタフな人間なら、折れずにいただろうか。

仮定の話は、所詮仮定だ。でも、もう少し、耐えられていたら?また違う分岐点の上で世界を眺めていたかも。

だから、世間知らずだ、と思う。世の中のありとあらゆる生きていくために必要な手続きや、いわゆる「普通」と言われる、親の世代が営んできた生活のようなものを、知らない。

 

世間知らずだから、いろんな人の話を聞いては、こういうこともあるのか、こういうこともね、と私は知識を増やすしかない。私の人生の生き方は、人の参考に多分、あまりならない。似たようなケースなら多少は助言できることもあるだろうけれど。でもまあ、私もそんなにイレギュラーではないし。ほんの少し、自分のキャパシティのことが理解できてなくて、ちょっとだけ心が弱くて、そういう人。きっとたくさんいる。私の痛みは私のものだから、似ていても違うんだけど。

 

このまま自分の中で抱えているあれこれをガッチガチの固い岩にすることもできるだろうと思う。それなり年数は生きてきたし、世界遺産にでもなった?というくらいガチガチの岩もあるにはある。譲れないところ。

その岩はもう動かないし、心の中で世界遺産に認定されたものなので、そのまま保存するしかない。

 

でもまだ柔らかいままの水やら何やらを吸う珪藻土、もしくはただのスポンジ。転がるほど角の取れていない石たち。

そういう、まだ岩にもなりきらない、そもそも素材が違うそんなものたちを、なるべく心の中に転がしていたい。私を形成するものが、思い込みや刷り込まれたもののままではなく、誰かの岩を似たような造形で作ったものではなく。

あなたの話が聞きたい。私の話を聞いてもらいたいと同じくらいに。共感ができなくても良い。わからないままでも良い。でも、私は世界に置いていかれたくない。だから、教えてほしい。

私は私の岩を砕くなら、自分でする。あなたも自分でしてくれれば良いと思う。そこまでできるのは他人じゃない。だから、聞くだけだよ。お互いにね。ツルハシを常に構えて、人と対話しないでほしい。かたわらに置くものは、喉が渇いた時に飲む飲み物だけでいい。

 

ゆるやかに、ゆるやかに。

 

 

 

いつまでたっても変わらない話

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ご無沙汰しております。

一日一日記!と意気込んでいたけれどあっという間に一ヶ月が経っている。時の流れって不思議ですね。

というのも、原稿をやっていたり体調を崩していたり色々あった。この一ヶ月、色んなことが起きたりイベントごとがあり、幼馴染と一緒に海外俳優と写真を撮ったり(マッツ・ミケルセンと初めて好きになった海外俳優であるオーランド・ブルーム。夢でも見ているかと思った)、久々の展示搬入作業に参加したり。

そして初めて大学の同期と宿に泊まり、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行ったりしていた。

 

きっかけは数ヶ月前。

三月に同期の結婚式があり、そのあとUSJに遊びに行きたいねという話が上がった。

全員がそれぞれ新しい、結婚、職場、仕事、引っ越しなど様々な転機を迎えて、大人になった今、いざゆかん、テーマパークへ。

LINEグループでは、どういったコーディネートで向かうかという談義がなされ、原稿で携帯をほったらかしにしていたら、知らない間にUSJに行くことになり、宿が決まっていた。音速の速さである。こういうところが大人になったなあと笑えるところだったが、そうこうしているうちにその日はやって来た。

 

メンバーは、私を含めて五人だった。

全員同じ大学を卒業している。一人は私と同じ分野で、私が先に留年をして先輩になったのだが、急にインドに行くと言って休学したマブ。

帰国するなり、私の左手は不浄の手になったと語った友人。

そして残りの三人は他分野。時折この日記にも出てきているバリバリに働いているギャル。そして、知らない間に留年した三月に結婚式を挙げたおっとりとした友人。

最後の一人は、真面目に大学に通っていたにも関わらず、大学院に進学したことにより、母校に一人取り残され、「なんでこうなるねん」とぼやいていた友人。

そして現在無職、時々元気な私である。

 

集合はホテル。まさかの前乗りである。ギャルは妹の結婚式に参加しており、USJ現地集合ということになっていた。

学生時代、なんだかんだずっと仲が良かったけれど、いざお泊まりとなると大抵はマブの家で一度も旅行らしい旅行をしたことがなかった。みんな、制作やら何やらと忙しくしていたからだろう。

夕方に集合。天気は生憎の雨で、ホテルにはマブ、おっとり、私が先に到着して、もう一人の到着を待ってもよかったが、もういいか、になって早々に部屋に上がった。いつものことである。全員が自由で、気兼ねない相手なので、多少のことは気にしない。ちょっと遅れるって言ってたから、さっさと部屋行こうぜ〜。

久しぶりに会ったけど、いつもどおりの調子でエレベーターに乗った。

 

マブは、長年一緒にいるパートナーがいて、三月に会った時、知らない間に結婚式を挙げていた。身内のみのものだ。いつも大体そういうでかい出来事は報告がなく、「エッ!?」となるのだが、見せてもらった写真に映るマブは綺麗で、白無垢がよく似合っていた。

エレベーターに乗っていると、マブが「明日は乗れる乗り物と乗れへん乗り物があると思う」と言うので、はて…と思っていたら「妊娠してん」いや、今!???!??!エレベーターの中だが!??!?!

こういうことである。

おっとりと私はエエ〜と言いつつ、彼女の話を聞くべく腰を構えた。もう一人の遅れている友人を放置して。

 

案の定、存在を忘れていた私たちは、「みんなどこ」という連絡で置き去りにした彼女のことを思い出した。ギャハハ!と笑いつつ、号室を伝えて、現れた彼女を迎えると、笑いが止まらなかった。そして揃った四人。

夕飯は適当でいいよねえと言いつつ、互いの近況をあれやこれやと話し、関西人の宿命なのか、すべらない話をいくつか披露することで、全員がしゃべり疲れて気付いたらもう夜になっていた。喉が痛い。マブと私は人と話すことが実家にいるため早々ない。

かなり働いたな、喉。

 

ベッドを決めるのに、妊婦であるマブは優先的にフカフカになり、誰か一人が簡易ベッドになるベッド争奪戦や、お菓子を買い込みすぎて食べ切れなくなったり、私はiPad持ち込みで原稿をしたり、そうこうしているうちにお風呂に全員が順番に入り出し。

 

遅刻してきた彼女(以下、はーちゃんとする)がお風呂に入り、私、マブ、おっとりになったところで学生時代のイタズラ心が疼いた。

私は人にイタズラをされることも多々あったが、どちらかというと仕掛ける方で、はーちゃんも仕掛けられる方だった。

怖い話をしたあとだったので、はーちゃんをびびらせてえな……そんなことを考えて、ベッドになんか仕込んでおくか、ということになった。

最初ははーちゃんがコンビニで買っていた、絶対食べへんで、と私が忠告したBIGサイズのポテチが候補に上げたが、でかすぎるしすぐバレるだろうということになって、ホテルの室内を漁って、使わなかったコンビニのスプーン(袋入り)をしのばせることにした。

綺麗に整えられたベッドシーツ。隙間からスッと手を差し込み、ちょうど足元くらいに仕込んだ。

 

はーちゃんのあとは私がお風呂に入る算段で、早く入らないとはーちゃんのリアクションを見ることが不可能になる。

お風呂を上がったはーちゃんに「はーちゃんってお風呂上がったらスキンケア時間かかる?」と確認すると、「適当やで。そんなかからへん」急がねばならない。

はーちゃんが洗面所を出て、すぐ入れ替わるようにお風呂に入った。

 

何をそんなにくだらないことで必死に、と思われるだろうが、これは学生の頃からずっとそうなのだ。箸が転がっても面白い。どんなことが起きたって、些細なことだって、急にお腹を抱えて笑えるくらい、楽しくなる。

そういう人たちとの旅行なのだ。

 

そそくさとお風呂を上がると、はーちゃんも支度を終えてベッドに入るところだった。

なぜかわからないが、私の気合いが入りすぎたせいで私の方が先に布団に入っていた。

はーちゃんは「私シーツ全部剥ぐタイプなんよな」と言って、ベッドの上に立ち、シーツをズルズルと持ち上げた。

やばい。期待しているリアクションを見れないまま終わるかもしれない。すでに笑いながら、携帯を構えた私と、寝ていたはずなのに上半身を起こしたマブ、私の隣で携帯を見ながら笑っているおっとり。

そして、布団にもぐったはーちゃんは異変に気がついた。

「えっ、何…?何!??!」

再びベッドの上に立ち上がるはーちゃん。一人のオンステージである。

足元に転がるスプーン(袋入り)。キャキャキャと笑う他の三人。はーちゃんは「何これ!?私から出てきた!??!何でやねん!何してくれてんねん!」と言った後、マブに振り向いた。

「さてはお前!これ見るために体起こしてたな!?」

察しがよろしいようで。

マブは「これ見てからじゃないと寝れへんと思って」と言い、その返しにはーちゃんは布団に撃沈した。

 

ゲッゲッと悪魔のように笑う私が犯人だと察したはーちゃんは、どうやってこのピッタリと整えられたベッドメイキングからスプーン(袋入り)を突っ込んだのかを問うてきた。

「えっ?隙間から。こう、ヌルッて」

「キモ!!!」

短い罵りに私はまたお腹が痛くなるくらい笑った。

 

私は、不眠症を患っている人間なので、結局どうしても一番最後に寝ることになる。みんながいびきをかいたり、寝言を言ったり、ありえないほどの回数の寝返りを打つシーツの音を聞きながら、楽しいなと瞼を閉じていた。

学生の頃に戻ったようだった。いつでも私たちは、子どものように楽しいことができる。幸せだなと思いながら、私の身体の電源は知らぬ間に落ちた。

 

翌朝、ホテルの朝食を食べたいとマブが言い出し、私は朝は頭がほぼほぼ回っていないので、部屋でぼーっとしてる、と言って、三人を見送った。部屋でぼんやりとコーヒーを飲みながら、ほっと息をついて、昔なら、絶対私も行く!!!!と思っていたところを、一歩引いている自分に少し驚いていた。

でもたぶん、私はきっと元々そういう人間だったのだ。私が気付いていなかっただけで、自由にしていいよと何を言われるわけでもなく、心を許した人たちには、ずっと。

 

ホテルにはUSJ直通のバスがあった。それも知らず、段取りを整えてくれていたマブに感謝しつつ、着いたテーマパークは実に十年近くぶりだった。こんなのばっかりだな…。

生憎の天気ということもあって、人はほどほど。私たちは急ぐ旅でもなし、ということでのんびりとパークを楽しむことにした。何せ、妊婦もいるし。

 

はーちゃんはUSJの年パスを持っているプロである。

全ては彼女に任せれば問題なし。淀みない足取りに私たちはついて行けばよく、待ち時間の少ないものから乗っていくことになった。最初は私がどうしても!ということでハリーポッターに行くことになり、早速そこでニフラーのぬいぐるみを購入し、私はウハウハであった。

ちなみに、全員、カチューシャ、帽子を購入。

私はクッキーモンスターのカチューシャが良かったのだが、いいものがなく、第二の推し、オラフでコーデを決めた。

会うスタッフの人たちに、完璧ですね!お似合いです!などと言われ、アザス!!と手を合わせて合掌した。

 

USJは、もはや私の知っているUSJではなかった。

名探偵コナン、呪術廻戦、スパイファミリー、進撃の巨人。こんな感じなんか…とたまたま入ったフードのお店に七海建人のカスクートセットがあって目ん玉を剥いた。映画の世界はいずこへ。名探偵コナンのみのグッズブースなどもあり、安室さんと赤井のカチューシャを見て意味がわからないほど笑うことになった。

のんびりと乗り物を楽しみつつ、適度に休憩もしつつ、私はフシギダネのフロートが欲しい〜と一人売店に並んだり、マブが眠いので一寝入りするのを見守ったり、とにかく自由でのんびりしていた。

そして、ギャルの合流。

 

ギャルは白のセットアップ(下は半ズボン)に、ルーズソックス、派手なスニーカーで現れた。あまりの最高さに手を叩いて喜んだ。気合いの入り方が並大抵ではなく、いかにこの日を楽しみにしていたかということが伝わる見た目であった。

やるならとことん。楽しむなら心の底から。でも、このメンバーなら間違いなく何でも楽しい。私たちの目的は、テーマパークを楽しむことではなかったのだと思う。

この人たちといれば、絶対に楽しい。その確信だけで集まっていた。

 

結局、私たちは閉園まで存分にUSJを楽しんだ。任天堂のエリアで記念に撮ろうと言った写真は、そこに行き着くまでと撮った後も色々あって、全員が泣くほど笑った。

普通はきっと、マリオカートのアトラクションに乗るのだろう。でも、ギャルが「イッツアスモールワールドみたいなん、ないん?」と言ったことから、ただただ任天堂エリアを見渡せるヨッシーの乗り物にのることになった。これやん、ユニバのイッツアスモールワールド。

二人乗りで、一人があぶれることとなり、私たちはジャンケンを正義にしているため、ギャルが一人で乗ることになった。

私はマブと一緒に乗って、よくわからない同じ色の卵を見つけたらボタンを押してね!という本当に子供向けなのだろうという遊びに興じた。

マブはボタンが感知をしてくれないせいで、光らへん…指紋薄いからかな…と小さい声でぶつぶつ言っていた。笑う私。後ろから手を振るギャル、そして動画を撮っているはーちゃんとおっとり。すっかり夜になったテーマパークは、少しだけ肌寒かった。

 

どうしてなのだろう。

何歳になっても、この人たちといると、私は大学生の時のままの自分になってしまう。彼女たちに何かをしてあげられたことはないし、ただ一緒にいて、多分、学生の頃も同じように楽しいことをした。

それだけのことなのに、今も昔もずっと「楽しい」が続いているのだ。

 

私たちの別れ際はさっぱりしている。

またすぐに会えることを知っているからだ。私とギャルは地元が近くで、同じ電車に乗って帰ることになった。全員が散り散りになって、じゃーねーと明るい明るい、さよなら。

次はみんなと何ができるだろうな、そんなことを思いつつ、それよりも先にマブの出産かなあ、と思った。

 

翌日、USJのアトラクションのスパイダーマンターミネーター、それからバックドラフトが終わるというニュースが入った。

どうなるんだろう、USJ。もう私の知ってるUSJじゃなかったのに。また行くのだろうか。

このメンバーだったら、行ってもいいな。

 

これは、私が私でいられる、ありがたい一つの場所についての話だ。

 

次に恋をするならという話

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なんかアクセス数多いな?と思っていたら編集部さんに記事を取り上げてもらっていました。毎度おおきにです。

 

今日のお日記ですが、今日はちょっとタイトルがロマンチックなタイトルになった。最近、恋してないな〜というところから、夜寝る前とかに次に自分がもし恋をするならどんな人だろうと考えている。

私は愛と恋はなんとなく、対自分においては別にしているというか、愛はありとあらゆるものに注ぐ水みたいなもので、友人も動物もパートナー同士の人たちも、何もかもをひっくるめて愛だと思っていて、恋は私的で、私に関わる云々である、と考えていることにまず気がついた。

 

こういう年齢なので、結婚式の後だとか、友達と集まったりすると、必ず話題に上がる。最近どう?とか、好きな人いる?とか、気になってる人いる?もしくは、全部をひっくるめて何か起きた?みたいな。

も〜そういう話いいよ〜という人もいるのだろうが、私は自分はさておき人の話を聞くのが好きなので、聞き手に回って、へえ〜と思って耳を傾けている。

でも、こういうのは大体順番に回ってくることになっていて、丸いはどう?と礼儀みたいに尋ねられる。私は、なんかあったら報告しとるっちゅーねん。と、毎回言う。そこから始まる、じゃあどんな人がいいとかは?もう、ここからは妄想と理想と高めのハードルを並べるだけの会話になる。言うのはタダやろがい!

 

関東にいた時、ギャルとお洒落な蕎麦屋にディナーに入った時、デートスポットだったみたいで、あたりはカップルだらけだった。肩身狭ェ。間違えた。暗い店内のカウンターで小声でそんなやり取りをしていたら、ギャルが「最後にデートしたんいつ?」と聞いてきた。普通に蕎麦をすすりながら咽せた。

「覚えていない」正直に答えると、ギャルも答えた。「私も」聞いといて覚えてへんのかい。

 

そういうわけで、別に恋がしたいわけではなく(※これを強がりと受け取らないようにお願いしたいところ。今は自分のやりたいことに一生懸命なので!ね!)自分の生活でいっぱいいっぱいですねん…という私にとって、友達がいて、遊び相手がいて、それ以上に一喜一憂をした経験。いつが最後だろう。と、思うと、どういう恋をしたいのだろう。に行き着くのである。

 

どういう人がいい?という質問は難しすぎる。一休さんレベルにならないと、上手い返しや最適解のとんちが思いつかない。いや、とんちにする必要はないのだけれども…一休さんほどの知恵が必要…という話。

でも、どういう人がいいかなと考えたら、誕生日に米5kgとかくれる人、面白くていいよなと思う。

たぶん、普通に好きになると思う。農家とかじゃなくても、急に米5kgをくれる人。結構、不意をつかれて好きになるかもしれない。

あとは…やっぱり好きなものが似てるとありがたい。日常の喩えを常にマンガや小説などから引用してしまったりするし、せめて何か一つくらい好きなマンガかかぶっていると助かる。自分で言っておいてなんだけど、助かるってなんだ。

うーん、できればハンターハンター好きな人がいい。気長に新刊を待っているということは気が長く、ハンターハンターのおもしろさを存分に語り合えるということはかなり話を読み込むこととかに余念がなく、情熱がある気がする。

 

こんなことを言っているが、恋というのは、噛み合う歯車、噛み合わない歯車、というものがあると私は思っている。

どれだけ互いを心地よく思っていても、そうはならないこと、が必ず起きる。人生のタイミングもそうだし、なんとなくお互いに好意を持っているのがわかっていても、ふんわりとしたどっちが先に出る!??!から結局出れない、となると、それはそういう間柄なのではないかという。別に妥協とか、そういうことではなくって。自分にとってその時最良である人が、その人ではないこと。が、ある。

 

年々、人間に対して、人として魅力を感じて好きだな、と思うことはあれど、確信を持ってこれが恋だ!と思うことはなくなってきた。忘れてしまっているのかもしれない。心臓が痛いよ〜!なんてことは、ストレスと不安と緊張以外で痛くなったり脈拍も早くなっていない。

でも、明日急に誰かに恋をするかもしれないし、誰かが私に恋をしてくれるかもしれない。

心構えはある。心構え…というか、心の準備?しなくてもいいですよ〜というわけではなくて、もし人生に楽しいセンテンスが増えるなら、それは恋もあるよね、という話。

敬遠はしてないし、宣告先の敬遠でもない。

 

とにもかくにも、次に恋をするなら、おもしろい恋がいい。歳をとった時、ありゃ笑えたね!と言えるようなそういうの。

 

楽しみだな……と特にアクションを起こすわけでもなく、今日も今日とて、明日も明日とて、日々は続いていく。

 

健康になるという話

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インフルエンザが終わったのに咳が治まらなくて、あ〜と思っていたら病院へ連行。

案の定、喘息を再発させており再び大量の薬と吸入器を渡された。久しぶりだな、お前……。1日朝晩2回吸入。辛い時は常に吸え。また薬増えちゃったよお…と泣きたくなるものの、いたしかたなし。

帰ってきて早々、スーハーしたらめちゃくちゃ楽になった。あ〜もうヤク漬けだ〜!!ちょっと泣いた。

 

眠ることが相変わらずできない私。

いつまで続くんだろうとぼんやりしながら、でもな、と思う。別に悪いこと続きなわけじゃなく、元気な時は元気だし、楽しいことは楽しいし、でも、健康ではないんだろうなということがらよくわかる。

これは身体的にという話。精神は元気だ。以前より息がしやすいし、自分のことをそこまで追い詰めることもない。ただ、判断力が鈍るとおかしくはなるけど。不幸でもない。ただ、そこに眠れない私、喘息がまた出てしまった私がそこにいるという事実だけ。

 

人には思ったより元気そう、と言われる。

それはそう。だって好きな人たちに会って元気じゃない方がヤバい。あんまりにも深刻にとられると、私がヤベーんですか!?と思うこと間違いなしだから、それくらいがちょうどいい。私に会ってくれる人たちには笑顔でいてほしい。

 

幸せの尺度というものがあると思う。

人にとって、何が、どれくらい、幸せで不幸せで、嬉しくて辛いことなのか。

それは人それぞれで、その判断も選ぶものも、私やあなたの勝手にしていいところで、そして、誰にも土足で踏み上がることではない。ただ、健康だけは身体に出てくると、不調か絶好調かがわかりやすいという話で。

年々、心と身体の乖離していく感覚はある。でも、生きてるだけでいいじゃん、と思う。ご飯が食べられなくて辛くても、どれだけ眠くて眠ってしまっても、眠れなくても、それが不健康だからどうにかしろと言われて、できることとできないことはある。

ただ、その人がそこにいるということだけで、安心することもあるのだから。

 

だけどまあ、辛いものは辛い。どうして辛いって、どんな解決策を講じてみても、回復の兆しがないとき。それができたら苦労しねーーーみたいなこと。うじうじ同じことを言っててもね、みんなちゃんと健康になりたいんだよ。その気持ちだけは知っていてほしいよなあ。

 

暗い話みたいになったけど、日々楽しいことも数えられる。だから、私は前よりずっと健康だ。それだけは間違いがないのだ。

 

 

 

嫌いなものの話

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インフルエンザで喉をすっかり痛めてしまい、早数日。喉の痛みと変な体のだるさが抜けきらない。そもそも、今私は学生でもないし、働いているわけでもないから、完治!の瞬間という切り替えが少し難しいのかもなと思ったり。

 

さて、今日はどんな日記を書こうかな、と思った時に好きなものの話は発信するけれど、嫌いなものの話ってそうそうしないよなと思って、嫌いなものの話にしようかと思う。

そもそも、嫌いなものってあえて言う必要もなく、ネットで発信するとネガティブイメージがついてしまうことも多い。でも、嫌いなものってあるよね〜と思うのだが、いざ嫌いなものを挙げてごらんなさい…と言われると難しい。

意識的に嫌いと思うと、私はそれに対して極端な無関心にいたる。特に、対・人となると、オリンピックくらいの周期でこりゃダメだ!の人に出会うことがある。そうなると、無関心、興味を持たず。この世界には最初からいなかったのだということにする。

自分でも言うのもなんだけれど、そうそう人を嫌いにはなったりしない。だからこそ、反動で0か100かの判断になってしまうのだろう。

 

嫌いなもの。

色々あるけど、パッと思いつくのは雷、とか、人の怒鳴り声、とか、とにかく大きい物音を立てる人が苦手だ。物に対して冷たい人とでも言えばいいのだろうか。ものを、ものとしてしか見ていないから、力加減が変な人。お、おお!?そんな風にコップを置きますかァ!?とか、びっくりしてしまうので、やめてほしい…と心の中で嘆くことがある。

うーん、でもやっぱりあんまり思いつかない。嫌いなものの話をして、ウキウキする人間でもないし。困ったことに対してどうしたらいいと思う?と聞くことはあっても、嫌いなこと、ものに対しては「もう嫌いだし!」という諦念がスタートだ。

ただ、あんまりにも大らかな人を見たり、優しすぎる人とか、そういう人を見ていると、その人の口から嫌いなものの話を聞けると、あ、ちゃんと人間なんだ…と安心できたりもする。だからできれば、人と話をするとき、嫌いなことと好きなことを半分ずつ聞けると嬉しいのだけれど。嫌いなこと話してくださいって、言われたら気持ち悪いよなあ〜と思う。

 

嫌いなものって、ある意味自分自身の弱みなんじゃないだろうか。そこを逆手に取られたら、簡単にイラッとしてしまうし、怒る火種になるし、傷つけられることもあるし。私にこうするとダメージ与えられますよ〜と言っているようなもので。じゃあやっぱり、嫌いなものの話ってしない方がいいよな!?とか。まあ、私は言ってしまったわけだけど…。

嫌い、怖い、苦手。嫌悪感の色々。

その中には人間の本性のぐるぐるした、どうしようもない起因と結果がある。誰かには理解されなくても、はっきりと明確な線引きで、「嫌い」のカテゴリーに収められるもの。

触れたくない。

言いたくない。

知られたくない、こんな自分を。と、同義なんだろうか。

 

嫌いなこと、もの。

最近そういうことをなぜか考えている。とりあえず、私は、雷、人の怒鳴り声、で。

あ、あと、蛙とかハムスターがあんまり好きじゃない。生き物として大事なところが飛び出ている(主に目)が心配だし、ハムスターがすごく平らになったりすると、この中に内臓が全部!??!と思って怖くなる。握りつぶせちゃうじゃん…。力を持ったモンスターの思考なのだが、それと同じく蛙も皮膚が薄い、足が思った以上に伸びる、とか、喉の膨らみが破裂しそう、などという理由から苦手である。嫌いとまではいかないが、見るとなぜかゾッとする。

 

嫌いなもの。

他の人はどんなものが嫌いなんだろうなあ、と思いつつ鼻にティッシュを詰めて、布団に寝転んでいる。

 

ふかふかの話

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先日、東京から帰ってきたら犬を触った瞬間、家を出た時と触り心地が違うことに気がついた。

家を出る前は、最近首が苦しそうという理由で首輪を外して室内野良犬になっているうちの愛犬。先月私が洗ったところだが、どこか毛が湿り気を帯びており、犬の匂いが少ししていた。

この何とも言えない香り、嫌いではない。

 

けれど、帰ってきたら間違いなく手触りが違っていた。ふかふかになっていたのである。

まだインフルエンザにもなっていなかった私はおおはしゃぎで、洗った!??!と聞いたら正解だった。ふかふかのもふもふ。

首あたりの皮がたるんでいるうちの犬は、そこの触り心地がいっとう良いのである。

 

ふかふかだねえ〜ハグさせて〜と抱きしめる。前の愛犬と違って、今の子は撫でられるのが好きなので基本無抵抗だ。

 

実家に帰ると決まった時、犬がいなかったら多分私は家に帰ることを決断していなかったと思う。原稿中、疲れてリビングに降りると犬が「おっ、俺を触るか?」みたいな顔をしてくれるので(※うちの犬は女の子だが)触ります、触ります、とちょっと触って心を癒された回数は幾度と知れず。

 

今までずっと毛の長い犬を飼っていたので、短い毛の犬は初めてだが、これはこれで良い。短くてふかふかした白い胸の毛に指を差し込むと、気持ち良さでふにゃ…となる。犬もふにゃ…と気持ちよさそうな顔で、まさしくウィンウィンの関係。

 

帰ってきて早々、インフルエンザになってしまったのでしばらく遊べていないし、またしばらく私が忙しいのだけれど落ち着いたら、遊ぼうな、と約束をして今日も私は布団に寝転がっている。

関節痛が…すごい…!

 

早く元気になりたいもんです。

 

コミュニケーションの話

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最近、作業中に邦画(音声が静かなので)を観る…というか聞く、みたいなのがちょうどいいと気がついた。

せっかくだし、色々観たいと思って見損ねたものを見てみよう、とどれを観るかな〜と物色。

邦画は、基本的に体力がないと見れないものが多い。これは私の勝手な印象だが、良いと思うものが大体ヘビー級のパンチを食らわせてくる重いテーマだったりするからだ。

あと、言語がわかるだけに受け止めるときの咀嚼回数が増える。そんなに噛んだら変な味が奥からしてきちゃうよ!と思うのに、クチャ……噛んでしまう。このへんは自分で加減せえの話。

 

一本目はウォーミングアップ。

ということで、『前科者』

森田剛が出ているのと、有村架純の演技がとても良さそうだったので見た。それもだったけど、若葉竜也くんの演技もすごいよかった。話の展開はアエ!?と驚かされつつも、途中途中に出てくるセリフがよく、決して全員いい人間だとは言えないけれど、その中に救いを求めてしまうのもいたしかたないよな。とか。

「弱いからいいんだよ 弱いから安心する」このセリフ、いいセリフベストアワード2023にノミネートです。

 

それから二本目である。

どうするかな〜と思って、そういえば見てないな、と『ドライブ・マイ・カー』…と、思ったが、私は何を隠そう少し村上春樹が苦手だ。苦手というか、趣味じゃないというか、自ら好んで読むかと聞かれると読まないなあみたいな。

前情報や、インタビューを読んだりもしなかったし、どういう構成かはあまり知らない。なんならあらすじもホワァ…としていたので、これくらいホワァ…としていれば観れるんじゃない!?と元気が出て、観ることにした。

 

男女の対話。

なにか物語を滔々と読むような声と、やり取り。ぼーっと見ていると、断片的な情報から主人公が俳優、役者と呼ばれる人間であることがわかる。そして多分、パートナー。

お〜!セックスの話しとるわい………村上春樹節だなと思いつつ、奇妙な言葉のやり取りに耳を傾ける。それは移動する車の中でも。

わざとらしい棒読みのような口調。映画の中に映画が入った入れ子状になったそれに、奇妙な装置感を感じ始める。

そして、現れるいつもの魅力的だけどいけすかない若い男。彼だけが、なぜか大仰に振る舞っていて、舞台に立っているような煌めきがあり、セリフもいちいちそういう言い回しをする。感情の起伏もわかりやすく、ある意味この中では一番まともで、演劇という仕組みの中では少し、異端みたいな。

このくらいあたりから、私の意識は内容よりも映画の中にある仕組み…?や仕掛けに目が向いていた。

とある島で演劇のワークショップをすることになった主人公。妻が亡くなってからのことである。なんか美術作品見てるみたい。島だし。とか思っていたら、言語の全く噛み合わない人たちがキャストに選出されていく。

そして、なぜかあのいけすかない青年も合格する。会話はまるで噛み合っていないのに、一人の女性に詰め寄る、空気感と言語ではないコミュニケーションでの支配力。なんだかすごくぞっとした。

 

主人公が滞在する間、車の運転手となった女性が言う。「この車が愛されているのがわかります」コミュニケーションの齟齬。散々、噛み合わなかった言語や、言葉のキャッチボール、はたまた身体と心、表と裏、見えないもの、見えていたもの、そういった話をずっとしていたのだ。と、その言葉でハッと気付いた。

言わずとも通ずる瞬間。

コミュニケーションの齟齬がなく、隔たりもなく、通じ合う瞬間。

一番簡単なのは身体のコミュニケーション。でも、からだは時々心を置いていく。生存本能的な部分で、人の頭を思い込ませたり、感情を操作する。それは、ある意味「愛していること」なんかの尺度をわかりやすくしたつもりのように。

 

言葉での対話。

通じるからこそ、必要とされる「知る」こと。違う角度から置いてある一つのものを見た時、影が落ちる場所が変わるように、全てを理解しえることはない。そして、その影全てを捉えることもできない。照らす側の光の加減もあるだろう。当たり前でいて、当たり前と知らずに信じ込んでしまうこと

 

フワ……とした気持ちでみようとしていたのに、しっかり見入ってしまった。あくまで、これは私自身の所感であって、そこは重要じゃねーーー!という人もいるかもしれない。が、私はこれを映画として見るのではなく、一つの美術作品のようにして見ていたような気がする。進んでいく物語に気を取られるのではなく、映画というシステムの中で、テーマに取られるコミュニケーションの話。そして、そこで起きるエラー、齟齬、認知できること、できないこと。

 こりゃ、おもしろいわけだあ…と納得した。

 

とはいえ、村上春樹のセックス!自慰行為!男!女!みたいな感じは何回見ても、あ、知ってるぞ〜と思ってしまうのをやめたい。

やめたいけど、ちょっと今回は一味違うじゃないの…と感じたよという話でした