病は気からの話
ヨッ!お見事!
というわけで、昨日から兄の調子が悪く、さらに言うと一昨日から父の調子が悪く、兄は今日の朝会社を休んで病院に行った。
へ〜…と思っていた私も、目が覚めてから異様な喉の痛さがあり、薬を飲んでとりあえず寝てみるか…と市販の薬を飲むも効かず。
兄は帰ってきた瞬間「インフルエンザだ!」と言った。
こうなると、私も同じ道を辿っているに違いない。
夕方、喉の痛みと鼻水に耐えきれず、「病院に行ぎだい゛でず」と言って、近所の家族たちのかかりつけ医さんの病院へ。
インフルエンザだった。
夕食を食べるまではさすがに薬が飲めないため、ヌ……ヌ…ズビ…と変な鳴き声と鼻水を垂らしながら耐え抜いた。そもそもインフルエンザになったのいつが最後!?大学院生の時もそのあとの仕事でも一度もなってない。
大学生でもなっていない気がする。
だとしたら、A型とB型を複合したインフルエンザになったのがおそらく一番最後だ。複合してるってなに!?一度で二度しんどい!?とその時も泣きながら鼻の粘膜を回収されたのを覚えている。
いやー、一気に来てしまった。
体力が落ちているところで、免疫力もちょっと…なこのタイミング。まあ、神様的に一旦休めってことで……ポジティブに人生考えさせていただきましょうかね!!!
床について天井を眺めている。
ちなみに、昨日から母は父と同じ部屋で眠るのをやめた。私が祖母の部屋で寝ていたのだが、そこで母が寝ることになり、私は自室で眠っている。
うーん、なんか色々納得いかんな〜!と、思うも今私は病人。全部元気になってからヨロシク!
呪文を唱える話
一ヶ月も開いてしまいました。
生きてます!そして一日一日記を復活させよう…と思い、これからまたなんでもないことのお話を書いていきます。
この一ヶ月だが、基本的には生活に追われつつ久しぶりの友人に会ったり、色々出入りをしながらスラムダンクで情緒を乱したり、元気なオタクとしても生活をしていた。
そして追われる原稿。ちょうど先週末イベントがあり、久々の限界原稿人になってしまった。今まで割と何の問題も……なかったわけじゃないな……であるが、こんなにギリギリになることある!?という原稿の進み具合だった。
実家では、原稿〆切前になると私が人として使えなくなると判断され、両親に奇行を繰り返していると指摘された。主に変なステップを踏んだり、急に停止していたかと思えば動き出し、さながら壊れたおもちゃのようであるそうだ。
自覚がなかったので、一人で生活していたときも多分そうだったのだろう。コッワ。
そしてなにより、家の中はめちゃくちゃである。
目下問題視しているのはその部分で、私はエネルギーをかなり吸い取られる。困ったなーと思った時は逃げ場所があるのだが、なんというか、余計なことを言うな!のオンパレードである。人の心あるんか!?と聞きたくなる。
そこをグッと耐えて、別のタイミングを見計らってあれやこれやと手回ししてみるも、すぐにみんな忘れる。信じられね〜〜
そんなこんなで生活を送っていたら、気づいたら4月になっていた。
実家に帰ってきてから、なるべく外に出るようにしているけれど、それでも何か思考が止まってしまう瞬間がある。
やっぱり自分の思うことは綴っておくべき。人と距離が空いて、一人の生活ではなくなったのも余計に。自分の感性を失う恐怖感がある。
誰かに損なわれることもあるし、なんだか削られることが増えたように思う。
や〜どっこい。
ひとまず自分のこと。自分を一番大切に。呪文を唱える。
無理な時は逃げる!呪文。
私は健康ではない!呪文。
誰かを構う余裕はない!呪文。
MP削れたら回復呪文。
そんなこんなの困った4月の幕開けです。
天才の話
最近、天才とはなんじゃらほい、と考えている。
天才。辞書を引くと「生まれつき備わっている、並み外れてすぐれた才能。また、そういう才能をもった人」
生まれつき備わっている。備わっているか〜とこの辺りを深掘りしていくと、これには学術的分類や体系があるらしく、そこまでの深淵を覗きたいわけではないため、あっさりと私はインターネットの海から顔を出した。岸へ戻れ…。
天才。
その言葉だけを聞くと、なんというかムズムズする。何を想像するかと聞かれると、突出した何かの才能を持っている人。という印象が私にはある。
あらかじめ与えられたものだとして。天賦の才ってやつは、最近凡人と天才のような話も何かと題材に取り上げられることも多く、凡人が天才を超えていく。といった小説や漫画など、そういうお話も少なくはないように思う。
そして、そこには大体、と言ってしまうとちょっとした語弊があるので、よく見るのは「続けられることこそ才能であり、あなたはその道の天才なのです」という言葉。
そうだな〜と思う。
なんだかんだ、続けている人の強さって、付け焼き刃の才能やセンスではかなわない、分厚さみたいなのがある。
熟成肉と、とりあえず品種は良いとされている牛…この喩えあんまりうまくない気がするけれと、まだ加工前なんです!でも美味しい肉ですよ!ということは保証されている。というような違い。
この続けること、努力のできる天才・才能はさておき、天才、そう呼ばれる存在に、私はなぜか途方もない孤独を感じてしまう。
人間誰しも孤独であるのは前提だ。
どれだけ誰かのことを愛おしく思っても、どれだけ理解したいと思っても、全てを理解することや知ることは不可能で、それは自分のこともそうだ。
もしかすると、こうだ!と思っていたことが思いがけない出来事で、明日にはひっくり返されてしまうこともあるし、何せ思考は流動的で、ずっとずっとそう、というのは難しい。あくまで、これは私の持論なので、私がそう思っている、という話なのだけれど。
でも、そういう孤独さとは、また違う。
誰もが抱えている孤独とは違う、どこか遠いところにいる感覚。私にその感覚を覚えさせたのは、多分、私の一番近くにいる兄という存在ではないかと思う。
家族の話でも書いたが、私の兄は、歩く辞書。わからないことを一聞くと、百返ってくるようなそういう知識の引き出しを持っている。
一方で、兄自身も言っているコミュニケーションが苦手だという側面。
苦手というか、なんというか。共通項のない人に対して、どういう話をしていいのかわからない、が正しいように私は思っている。
とにかく、兄はべらぼうに頭が良い。
塾や予備校などに通わず、いわゆる有名大学に進学した兄。順位や何やらが目に見えるようになる中学生、兄のすごさはそこで実感することになる。
なんかよくわかんないけど、とりあえず学内順位は十位以内。高校に入ってもそれは変わらず、全国模試でとんでもない順位を叩き出したり、センター試験では何ぞで満点を取ったとか取っていないとか。
最早、身内であるのに都市伝説のようなものだ。
半信半疑でこうだったの?と聞くと、想像の五百倍はすごい返答がなされるので、最近は怖くてあんまり聞かないようにしている。
とにかく私にとって、兄は兄。
すんごい頼りになるというわけでもなかったけど、小学生の時に泣かされている私を兄の友人が見つけ、兄を連れてきたことがあった。
兄は「何してくれてるんや!こいつ泣かしてもええことないぞ!」と笑いながら言っていた。
どんな助け方やねん。あと、なんでわろてんねん。
でも、上級生ってだけで効き目は抜群。
兄はそそくさと同級生と姿を消したが、しっかりと担任の先生にチクってくれていた。そういうお兄ちゃん。
本が好きで、一つのことに集中したり好きなことに関するものはとことん追いかける。読書量もすごければ、記憶力もずば抜けていた。
私は外で走り回って門限破って、家の中に入れてもらえなくなるような、自由奔放人間だったため、兄のことはすんげ〜くらいにしか思っていなかった。
関西の野原しんのすけ。すんげ〜!
中学生になってから、兄はあまり私と遊んでくれなくなった。
家でも部屋にこもっていることが多かったし、定期テストがあったのもあるだろう。そして何より、兄は学校で「いじめ」にあっていた。具体的なことは聞いたことがない。多分、しょうもないことがきっかけだったのだと思う。字が汚いとか、運動が極端にできないとか、落ち着きがないとか。
結構、漫画とかドラマで見るようなエグめのこともされていたらしい。
が、家にそれを持ち込むことは少なかった。特に、私の前ではそんな話をしなかった。だから、私は知らないのだ。
母は、得意なことで見返せばいい。出来ないことで戦う必要はない。そう言ったらしい。
だからなのか、兄は勉強することをやめなかった。自分の得意なことで、どんなに周りに何を言われようとも、確固とした覆せない目に見える結果を残した。
ただ、その話を聞いた時、兄が欲しかったのはそういう言葉だったのだろうか、と私は思った。
私なら、きっと何があっても味方だよ、というような言葉や、あなたを守るからね、と言われた方が嬉しいし安心できたように思うからだ。でも、実際にどうにかできるのは自分ただ一人。兄は、冷静でいて、何かをその時諦めたのだろうか。そんなことを思ってしまうのだ。
長い終わりのない海を、一人、船で渡るように。
兄との距離が、この時少し遠くなったように感じていた。
やり取りも少なかったし、不思議なことにすっぽりと記憶が抜け落ちている気がする。
それと同時に奇行も増えた。
リコーダーの掃除する棒をストーブで溶かして燃やしたり、ティッシュを延々と噛んでいたり(ちなみに鼻セレブは甘いらしい。一生噛むことないからわからんけど)部屋のシャッターを下ろす時に大声で叫んでから閉めるのを日課にしたり。
だけど、私も私で、それが私の兄という生き物なので…と思っていた。変だけど、ま、そんなもんじゃない?
大学生になって、好きなことをやり始めた兄は、自分の周囲に自分と同じ学力で、同じような興味を持っている人間に出会って、楽しそうに生活していた。
そこに私が大学進学をきっかけに同居することが決まった。
兄は快諾。私と兄の間には、なんとなくお互いにはあまり干渉しないというほどよい距離感があったからだろう。実際、生活が始まるとお互い好き勝手なもので、自由な生活が始まった。
幸い、私も兄もアニメやマンガが好きで共通の趣味があることで、あれやこれやと会話をしていた。
そんな日々のある日、大学院に進学していた兄が単位の危機と、学校に全く来ていないという連絡が入った。確かに家にはずっといたけど…朝早くには家を出る私には目から鱗の出来事だった。
兄は教授との折り合いが悪かったのだそうだ。
兄は基本的にあまり他人を信用していない。奥底に、何をされるかわからないという経験があるからだろう。折り合いが悪くなってしまって、どんどんと兄は内側に引きこもっていった。
自分がやりたかったこと、好きなこと、こうしたいと思っていること。それに対して理解が得られないこと。同級生の友人が、その教授からのパワハラで大学を辞めてしまったこと。目に見えて自分が弾かれていった、そう話した。
兄はまた、どうしようもない孤独にさらされたのだ、と思った。
私には途方もなく思える、孤独。もし、この時兄に一人でも良い理解者がそばにいれば、と。私のわからないことを補う、そんな人がいてくれれば。
母との連絡も絶った兄は、世を辞す内容の長文のメールを母に送った。
私に転送されてきたそれには、「自分一人がいなくなれば、解決することがたくさんあります」そう書かれていたことと、自分のお金は全て妹である私に使って欲しい、「丸は器量がよく、人望もあるから、きっとうまくやります」
そんなメールで褒められたとて、嬉しいわけがなかった。
読んですぐ、私はそのメールを消した。
兄は、結果を得るために自分の努力を怠ることのない人で、それができない人を、理解できない。
どうしてこんなこともわからないのだろう。その後塾の講師を始めてから、失踪するにいたるのだが、その時もそう言っていた。
自分のできていたことが、誰にでもできるわけではない。それを知っていても、そこを糧にして生きていた兄にとって、それを認めてしまうことは限りなく自分の存在意義を揺るがすものなのだろう。
兄は人として信頼できない人に対してかなり強い言葉を使う。それを聞くたびに私はこの人でなければ言えないなと思うし、笑ってしまう。
こんなことを言うのは家族の前くらいだが、私も私ではっきりと言うことにしている。「捻くれてんなあ」兄は同じように笑う。「頭が良いか、人が良ければこうは言わへん」
兄の隣は、いつも空白だったように思う。
警戒心が高く、自分に対しての自負、得てきたもの、なかったもの。それを持ってしても、人に執着することができず、彼の親しい人を知ってはいるが、どこかいつも一人きりで世界を浮遊している。
兄は失踪した仕事のあと、病院で本格的な診療を受けることになった。
検査でわかったことは、兄にIQ140以上あること。頭の回転の速さに対して、体が追いついていかない。そして、空間把握能力が低く、絵を描くことが苦手で、物との距離感が取れず不注意になること、など。
色んなことに腑が落ちて、そのうえであらためて兄にとってこの世界は少しばかり生きづらいものだったのだなとも思った。
こと、これに関してはスポーツや勝負事の世界における場合の話ではない。
けれど、兄は確かに人より、私より、はるかに頭が良く、知能があったことや、それを納めるだけのたくさんの引き出しを持っていた。
知らず知らずのうちに溜めていくことができるだけの容量が、他の人よりうんと多いのだろう。
兄の口からは、兄ほどの存在でなければ言えないだろうなというセリフがよく飛び出してくる。一見すると、嫌味な空気を纏う言葉も多い。けれど、私にはどこか寂しく遠い距離から届いた声に聞こえるのだ。
哀れみはない。彼を前にして私が嫉妬をすることは、兄妹である以上、比較対象にされればあった。ただ、絶望はしなかった。理解ができないとも思わなかった。
私が想像するのは、彼の隣が空白でなかったなら、それはどんな世界だったのだろうか。
私が、そう思うだけの話なのだ。
兄に関することは私の憶測でしかない。
私の前で吐かれた弱音など、ほぼない。知られたくなかったのもあるだろうし、私がそれでも兄を「お兄ちゃん」として接し続けてきたこともあるだろう。
彼は、私にとって一番身近にいる天才と呼べる存在だ。
ただ、生きる術として天才となった彼。生まれ持ったもの、そのあとに得たもの。そして、どこか欠けてしまったもの。
天才。この言葉で表現される人たちについて、私はいつもどこか複雑で、言いようのない気持ちを抱いて眺めている。
呼称の話
3月に大学の同期の結婚式があるので、そろそろ髪を切ったり準備をしなきゃな、と思っている今日この頃。
大学の同期である友人のことを思い出していると、なんとなく人の呼び方について考えていた。
大人になっていくと、友人を新しく作ることはほんの少しだけ難しくなるように思う。今はSNSや色んなものがあるから、好きなもので繋がることも可能だし、それで実際にできた友人はここ数年で何人かいる。
昔はインターネットと言えば匿名性が高く、実際に会うとされる「オフ会」など、ど緊張したものだが、今日の「オフ会」のようなものはずいぶん気軽になった。
共通のフォロワーがいれば、元々オフで知っている友人のことをうっかり名前で呼んでしまうこともある。呼ばれることもある。ある程度信頼を置いているため、名前がバレたとて、ヤバいことをしているわけでもなし、気にする人は気にするのだろうが、私はあまり気にしていない。
ネットで出会った人は大体、私をまるさんと呼ぶ。かなり長い間この名前を使ってきているので、まるさんは私。私にもう一つの名前があるような感じ。年齢とか、そういうものは互いにふわ〜とした認識をしているので、大体の人を◯◯さんと呼ぶことになるだろう。
でも、なんとなくこの人にはちゃん付けが似合うなあ、とか、〜氏がいいなあ、とか、渋いあだ名がいいなあ、とか、本人には言わないけど、思ったりする。小さい頃の癖が抜けていないんだと思う。
あだ名をつけると、なんとなくお互いの距離が近くなった気分になる。仲良くなる一歩目は、お名前をなんて呼ぶ!?そういう考えが私には多分あるのだろう。
実際、大人になってくると名前を呼び捨てで呼んでくる人ってあんまりいない。
大学院生の同期に、「まるって呼ぶね!」と言われ、オオ…久しぶりの呼び捨て…と思ったのを覚えている。それ以来、私のことを名前で呼び捨てで呼ぶ人は現れていない。別に親しい、親しくないには関係なく、シンプルに〜ちゃん、〜さん、〜くんがテンプレートなんだろう。
インターネット上で、オフの友人である幼馴染のくまちゃんは私を「まる」と呼ぶ。私は普段彼女を名前で呼ぶのに、なぜかツイッターや何やらでやり取りする時はのくまちゃんになる。
まる、とのくまちゃんに呼ばれた時、なんかすごい恥ずかしかった。もう一つの側面であるインターネット上の自分が、グイン!と現実に近づいた感じがした。謎の照れ。それで言うと、私がのくまって呼んでもいいわけだけど、なんか、ちゃん、つけちゃうな…みたいな。
それから本名の話だ。
私の場合、名前にあだ名がつけにくいということもあり、大体の友人は私を名前で呼び捨てにする。もしくは、名前にちゃん付け。高校生の時には名前と全く関係のないあだ名が広まったこともあったし、逆にそれが本名をもじったものだと思い込んでいて、私の本来の名前を知らない同級生すらいた。
一度、面白いあだ名をつけるのが得意な子がいて「つけてみてよ〜」と言ったら「神様」というあだ名がついてしまい、彼女はとても朗らかで元気な子だったので、朝に駐輪場などで会うと大きな声で呼ぶのだ。
「神様〜〜!!」
その先でチャリを停めている私は神様とはほど遠い、どこからどう見ても普通の女子高校生である。
それからよくあるのが、苗字を呼び捨てのパターン。
中・高によくある、なぜか苗字で呼ぶというそれ。大体、半々くらいの確率だった気がする。呼びやすい苗字というのがあるとしたら、私は多分名前より苗字の方が呼びやすいのかもしれない。発音的に。苗字で呼んでくる同姓の友人には苗字返しで。謎の作法。
高校を引きずって、大学ではなんとなく苗字呼び捨ての友人もいる。なんとなくそうなった。でも、名前で呼ぶこともあるし、結局のところその人が誰であるかという目印なのだ。一番最初につけられる、その人だけの、目印。
私自身が、ずっと上下関係のあまりないところで自由にやってきたからか、元々の気質もあるのか、少しでも直接話すことがあると、敬語なるものがどこかにいってしまう。考えてみると、中・高では先輩と呼べる人たちは部活にいたが、今まで付き合いがある人は皆無だ。
初めてできた先輩というのは、大学時代の人たちということである。元々文化系の私は、先輩!と呼べる存在にかなり憧れはあったものの、実生活には存在しなかった。
マンガとかであるじゃん、なんかほら…先輩!みたいな…そういうのを体験してみたい…的な。
最初こそは、サークルや学科の先輩を先輩!と嬉々として呼んでいたわけだが、気づくと◯◯ちゃん、◯◯くんになっていた。おまけに敬語の文化も私の中では荒廃した。
ふ、と流れるように敬語がどこかに行って、最初は相槌が「うん」になる。もうこうなったら終わりだ。気付いたら、大切な話をするときは敬語でも、日常の話をする時はタメ口で話している。
私の周りにいる人たちが優しいのはまず大前提で、あ、大丈夫だな〜と謎のラインを自分が超えると大体の人たちをちゃん、くんで呼び出す。
年上でもあだ名呼び捨ての人もいるけれど、それは親しみを込めての呼び方で、相手と自分の中である程度信頼関係あって…のことと私は、思っている。相手はわからない。戸惑わせている確率もかなり高い。
たまに距離感の詰め方がどうかしていると言われるので、それもいなめねえな…と思ってはいる。
急激に仲良くなれる人というのは、大体が波長が合っているからだと思っている。面白いと思うポイントが同じだったり、似たような言語を使ってたり、そういう。
こういう人間なので、気を遣われると異常に緊張する。
後輩や年下にもなるべく気楽にいてほしい気持ちがあって、自分が先輩にしてもらって楽だったこと。持ち合わせた気質ごと、どう接せられてもなんと呼ばれてもまあいいか〜と思う。
柔らかすぎるのもどうなのかと思うんだけれど、人が好きだから人に寄られることも、人に寄ることも好き。
その中で、呼称、はその人を認識して、相手を知るための大切な名前とセットで使いたい。なんだか、その人にぴったりなもの。
しっくりくる、自分なりの目印。
実家に帰ってきて、日記にも書いているように犬がいる。
犬はチロという名前なのだが、家族にはチーちゃん、もしくはチーと呼ばれている。それらを犬は私の名前!と認識しているようだ。
兄が犬をチーと呼ぶのと同じように、最近私の名前を頭の文字を伸ばして呼ぶようになった。丸いとかまるなら、「まー」みたいな感じ。
変な感じ〜子ども扱いされてるみたい〜と思うけど、兄にとっては私はずっと妹なので、そういうもんなのだろう。
名前の呼び方って不思議だよね。
そして、おもしろい。ちょっぴりその人と誰かの関係性が見えたり、私と誰かの関係が見えたり。
小さなことだけれど、私はひっそりと楽しんでいる、ということに気付いた日記でした。
お葬式の話
先々週のことである。
父の兄、私の叔父にあたるその人が亡くなった。
父と二歳しか変わらないその人は、あまりに早く亡くなった。父は、母と調子が悪くなったことを聞いてすぐに会いに行っていた。私は手紙を書き、父と母に託し、帰って来た母は父が泣いたのだと呆れたように言っていた。
まあ、泣くだろうよ。
自分の立場を思うと、そりゃそうだろうなと納得のことだ。母は「辛いのは奥さんと叔父さんやのに!」と言っており、それもそうだが、父は血の繋がった兄なのだ。まあまあ、と母をいなし、帰ってきてからも泣いている父にそっとお茶を淹れた夜。それから数週間。叔父の容態はみるみる悪くなり、訃報が届いた。
斎場の空きがなく、葬儀は一週間後に。カチコチにして保存しておくってコト……!?世間知らずのちいかわになった私は驚きつつ、母は家にいる祖母のこともあり、私が父に付き添って叔父のお葬式に参列することになった。
一週間の間、私は以前の職場の同僚の友人と、お世話になっていた教授の知り合いであるお兄さんと会って、色々と話をした。刺激のない日々を送ると一気に老ける。歳を取るのは嫌じゃないけど、老けるのはなあ。三人で大阪の喫茶店でそんな話をしながら、最終的にポケモンセンターの入っている建物でスタンプラリーをした。
その時、お兄さんこと坊主は、兄弟の話になり、「無条件でなぜか妹が可愛いのだ」と話していた。家族は難しい問題で、坊主にはお兄さんもいるそうだが、そちらとはそこまで仲が良くないと言う。難しいよね、家族ってさ。三人でそんな話をした。何がどうってわけじゃあないけど。
新幹線のチケットを取り、父が何かに不便さを覚えないよう、色々な支度をした。主にまあ、交通網の方だが。私は土地を転々としているし、旅慣れているが父はもっぱら車での移動が多く、新幹線に乗るのもいつぶりかといった話である。
モバイルSuicaの私は、自分のICOCAのカードがあることを思い出し、父にこれで行きましょう、と切符などを買う手間暇を省いて、いざ関東へ。
私と父は、二人になると静かなものである。
話すことがあれば話すが、お互いに静かなことをさして気にすることもない。新幹線であまりに尻が痛く、イテェイテェと言う以外は静かな旅路であった。
父の兄。その叔父には、私は三回しか会ったことがない。曽祖母のお葬式、それから父の両親にあたる祖父母のお葬式。父は三兄弟なので、父の弟の結婚式…で…会ったような気もする。いずれにしても、無口で不器用で、体ががっしりしていて、ちょっと子どもが話しかけるには緊張しちゃうかな〜!みたいな人。
ゆっくり喋ったのは、私が大人になってからの祖母のお葬式くらいのものである。
ちなみに、それで言えば叔父の奥さんである叔母には幼い頃の曽祖母のお葬式で会っているらしいが、当時私は三歳にもならないような年齢で、ほぼ初めましてになる。
父の電話口から聞こえる叔母の声はいつも気丈で、すごいものだな…と感心していた。
ひとまず乗り継ぎの品川駅に着くと、父が明らかな都会に緊張しているのが目に見えてわかった。どうしてあげたらいいのかわからず、連れ回すのもな…と駅のすぐ近くの建物でご飯を食べた。かの有名なつばめグリルである。
そこでも父は落ち着かない様子で、爪楊枝がない…と畏まったように呟いていた。つばめグリルにはないわな。あまり見ない父の姿に可愛いなと思ってしまったことは内緒だ。
母と二人で旅行、というのも夏に母の友人と母と行ったのが初めてで、今回も父と二人きりでの遠出は初めてだった。これが楽しい旅ならもっと違っていたのだろう。
けれど、この旅はお別れを言いに行くための旅。
父は時折、遠いところをぼんやりと見つめるような顔で、色々と思っているようだった。
父とホテルにチェックインすると、叔母が迎えに来てくれ、先に叔父の顔を見に行くことになった。そこで、父の弟であるもう一人の叔父が来ることを知ったのだが、ここもまた複雑な話。叔父(弟)は悪い人ではないのだけれど、少し気難しい。次男の父は板挟みになりながら、よく色んなことをやったものだと大人になった今だからこそ思う。
叔母とは「初めまして」と挨拶をすることになった。式場へ向かう道中、私が書いた手紙にお礼を言ってくれ、曰く叔父はニタァ…と笑いながら読んでいたのだそうだ。可愛いな。
父と母が会いに行ったその日以降、叔父は起きている時間が減り、食べ物も食べなくなっていってしまい、ちょうどよかったのだと叔母が寂しそうに笑っていた。
私も会いに行けば良かった。
そうは思ったけれど、全てはもう終わってしまったことだった。なんとも言えない気持ちになって、鼻の奥がツンと痛んだ。
父と式場に入り、遺影と並ぶ花、棺の前に立った。
叔父は祖母によく似ていて、多分フォトショで加工したんだろうなあみたいな、青空バックの真ん中で口をまっすぐに結んでいた。いや〜おばあちゃんに似てる。
線香を上げて、顔を見ることになった。父は嫌やったらええで、と言ったけれど、見るつもりだったので叔父の顔を小さな窓を開いて覗いた。
思っていたよりも痩せていなくて、でも、どこか固そうで、中身が何もないのだろうとわかる、そんな冷たさ。いつも不思議でならないことだった。どうして、体が、心臓が、すべての働きが止まると、人はこうして「からっぽ」のように見えるのだろう。
父は、綺麗にしてもらってる。と、小さく呟き、しばらくそこを離れなかった。
そのうち、叔母の妹家族が来て、軽く挨拶をして、私たちはホテルに先に戻った。
この時会った妹家族の姪御さんがとても可愛かったので、どうにか友達になれねえかな〜などと言いつつ。
ちなみに翌日、無事に斎場に向かうバスの中で話すこととなり、ナンパのように連絡先を交換することに成功する。妹さんのご家族は長女が私と同い年らしく、それもあったのか妹さんと行き帰りのバスの中でキャキャ!と話し、打ち解けた。大きな収穫である。
姪御さんにお仕事何をされてるんですか?と聞かれて、無職です……と答えることになったのだが、「美容師さんかと思いました!すごいオシャレやから!」と言われて慌てふためくも、ありがてえ〜〜!と舞い上がった馬鹿正直者である。でも、無職です。
そして、式の当日。
叔父(弟)の息子は今小学校の五年生で、私とはかなり歳の離れた従兄弟になる。どうやら今回で私のことを従姉妹のお姉ちゃんと認識したらしく、「いとこやで、いとこ」と言うと「血が繋がってるん?」と尋ねてきたので、そのとおりですと答えた。
子どもは純粋なので、お姉ちゃんは何歳?と聞かれて、ええと…◯◯歳だよ…と答えたら、自分の歳と年齢差を数えており、その歳の差に驚いていたので、「ずっとお姉ちゃんと呼んでくれ!」と私は嘆願した。
ものものしく始まるお葬式。
お経を聞くのが結構好きな私は、今回はどういうタイプかな…と思いつつ、お坊さんではないスーツスタイルのおじさんが前に出てきたのを見て、初めての宗派だ!?と勝手に興奮していた。興奮すな。
南無妙法蓮華経。あ〜これね…と思い手を合わせていたら、合唱が始まった。
知らん知らん知らん!!!!!私、さすがに唱えられん!!!
合唱タイプは初めてだった。南無妙法蓮華経しか唱えられない私は小声でそれだけを唱えることにした。最後のCメロくらいで、南無妙法蓮華経の三回繰り返しがあったが、もう一回あるかもと言いかけたら、読み上げの代表おじさんのソロだった。あぶな。
そのあとは、棺にお花や生前に好きだったものを詰めて行く、という流れだ。
叔父の好きだった煙草。父と同じそれ、そして、祖父と同じショートホープ。相撲の雑誌、愛読書の本。お酒が好きだったから、好きなおつまみだったチップスター。それから、花の蕾にお酒をつけて、飲ませてあげた。
叔母はとても気丈に振る舞っていた。覚悟もしていたのだと話していた。日に日に、生きている人の顔ではなくなっていくでしょう?だからね、と話しながら、この人は毎日いつ、どんな時にお別れが来てもいいように日々を過ごしていたのだろう。
そんな叔母が、最後に顔にそっと指を伸ばし、冷たいそれに触れるとほろほろと涙を落とした。愛おしそうに髪に触れる指。大切なものを触れる時って、こんなにも優しいのだと思うような、そんな仕草だった。
とても美しく、綺麗な瞬間だった。
叔父との思い出など数えるほどしかない私は、なぜかそれを見て涙が出た。ああ、愛ってこういうものなんだ、と。私の知らない叔父。その人と添い遂げた人。愛情を心を交わした人。他人でもわかる、深い、深い、何か。
泣いている叔母の腕に手を伸ばした。
叔母は、軽く私の手を握り「ごめんねえ」と泣きながら笑った。昨日初めて会ったのに、不思議な瞬間だったように思う。
父も泣いていた。叔父(弟)は「俺は触られへん」と、苦い顔をしていて、だろうなあと思った。
あとは、骨となり、灰になる。
体格の良い叔父の骨はびっくりするほど立派で、骨、デカ!になった。骨上げの時、隣に立つ小五の従兄弟に「怖くない?」と聞くと頷きながら「三回目やからな」と、返答された。
なんちゅうシビアな回答。思わず笑ってしまった。「私は怖かったなあ」と言うと、「そう?」などと、けろっとしたものだった。
帰り道、父は静かだった。
疲れもあったのだろう。私も新幹線で爆睡した。ただ、一言「早かったなあ」と、言った時、私はそうだねえ、としか言うことができなかった。
私の知らない叔父の話もたくさん聞いた。やっぱり、もう少し会う機会や話す機会があれば良かったのに、とも思ったし、でも、これ以上の近さがあったら私は私で父に付き添うことができなかったかもなとも思った。何せ、感情の振れ幅が人より極端だから。
お線香の香る、からだ。
昔はこれが嫌いでたまらなかった。いつの間にか、その匂いは嫌いではなくなっていて、私は「この世界からいなくなること」になぜか心を揺らされている。
家に帰ると犬がずっとあらぬ方向に目をあちこちやり、不思議そうに首を傾けていた。
叔父さん連れて帰ってきちゃいましたかねえ、と笑った。
叔父はまだ、あの世とこの世の間を旅しているだろう。四十九日が経ち、無事に祖父母に会えると良い。
優しい別れ、触れていた愛。私はきっと、あの瞬間のことを忘れないだろうと思う。
人とまた暮らし始めた話
先月一回しかお日記書いてないな!?とびっくりしつつ、二月になった。私は知っている、二月が光のような速さで終わっていくことを…。
さて、実家に帰ってきて二ヶ月が経過した。
私の病気自体は一進一退。何もできない日もあるし、何でもできる!と思う日もありつつ、病院は転院し、前まで知らなかった情報を色々と与えられ、エ!?と思うこともあった。
なんじゃそら〜とひっくり返りそうになったが、薬を少しずつ変えていっている。
そんな私の生活は、ああ、人と犬と暮らしているな、という感想である。
実家に帰ってくると、人と暮らすことが強制イベントで起きるため、まずはその家のルールに慣れなければならない。家族と言えど、他人。朝は何をしなくてはならなくて、どういう感じで生活をしているのか、そういうものを見定めて、自分の生活を確立させていく。
犬。
私が生まれてから、三代目の犬になる。保護犬として親犬がいないところを保護されて育った愛犬は、おそろしいほどに家族たちに蝶や花よと育てられ、体格の割にビビりで内弁慶な犬に育っていた。
まず、この犬だが、朝昼晩の食事がある。
私より規則正しい生活をしている。信じられん…。朝起きると、大体は朝早くに家を出る父に朝ごはんをもらっているのだが、たまにもらっていない日がある。
そういう時、犬は顔と仕草でアピールをしてくる。ご飯の器を舐め、私の腕にガッと前足を乗せるのだ。最初は散歩に行きたいアピールだろうか…と思っていたら、朝ごはんの要求だった。わからん。
祖母はこの3月で御年93歳になるのだが、昨年生死を彷徨い、このままだと固形物の食事は無理でしょうと言われた状態から奇跡の復活をした人である。
足腰は弱ってしまい、耳もすっかり遠くなってしまったが、久々に帰ってきた実家で見た祖母は思っていたよりもしっかりしていて、驚かされた。
しかし、そうは言っても介護認定がされている人だ。一人で出来ると言っても、万が一、億が一、何かあったら困る。
祖母の朝は早い。なるべく祖母の起きる時間に、起きるようにしている。もちろん全く無理な日もあるが。朝は大体、祖母、私、犬の三つ巴である。
祖母の朝食の準備を手伝いながら、仏壇からお茶と水を下げてくる。一番茶は仏様に。我が家のしきたりである。親を沸かし、お茶を淹れ、祖母の水筒の準備をし、再び仏壇の前へ。
チーンチーン!と景気良く…あれ…なんて言うんだっけ…錫の…とにかくあれを鳴らし、「おはようございまーす!」と仏壇の曽祖母と祖父へ挨拶をする。すごく大きい声で挨拶をするので、祖母が「おじいちゃんびっくりしとるで」と大体毎日言う。
祖母は最近、同じことを何度も何度も話す。けれど、私はなるべくそれを何度も聞くようにしている。登場人物は大体わからないのだが、たまに気になって質問をすると答えてくれるし、毎日新しい物語を聞いているようにも思えるのだ。
祖母の朝食が始まり、犬にごはんをあげると、のろのろと私が自分の朝食の準備をする。
うちは毎朝、パン、カフェオレ、チーズ、ヨーグルトだ。
甘やかされて育った犬は、チーズの銀紙をぺりぺりとめくる音で飛んでくる。こいつ…ずっとチーズをもらって育っている…。
それからヨーグルトの蓋を開ける。その音で再び犬は駆けつける。ぺろぺろとヨーグルトの蓋についたヨーグルトを舐め、空になった器のヨーグルトも舐める。
前の愛犬もそうだったが、どうしてうちの犬は乳製品が好きなのだろう。
犬自身がそれを欲さない時は、何をしていても無視。私も欲しがらない限りは、いるか?とは声をかけない。基本的に私は放任主義である。
そうこうしているうちに、犬がそわそわしだす。パジャマに上着を羽織ったままの私に、散歩を促すのである。
「こんな格好じゃ行けね〜よ…」
私は犬と意思疎通を取る時、必ず喋りかけている。一人で。頭の回らない朝。洗い物を終わらせて、洗濯機を回しに行き、私は服を着替える。上着を着て、マスクをつけると犬が吠える。散歩だ!!!朝からうるせ〜…と思いつつ、散歩に出る。
のだが、この犬、本当にビビりに育ってしまい、行く先に犬がいたり人がいたり、車が停まっていると引き返す。初めてそれを見た時、私は何も知らなかったので、帰って早々「何こいつ!?散歩しないよ!?」と言ったら、「いつものことやねん」と家族に言われた。
宅急便のトラックにびっくりして、溝にハマる姿も見た。犬って溝にハマるんだ…?
散歩時間、驚くほどに短い時は5分ほどで終わる。なんなら家の庭で終わることもある。
散歩ってなんだよ。
前の愛犬は今の犬の三分の一ほどの体重だったが、30分から1時間は歩く犬だった。帰宅すると、顔から体まで拭いてやるのだが、その時はかなり賢く、拭くべき足を順番に上げてくれる。そんなに家が好きかい…と思いつつ、私の運動にもなりゃしねえ…と、リビングで大したこともしていないのにハスハスと息を切らす犬を困った顔で見ることになるのだ。
その代わり、家の中ではおもちゃを振り回し、吠えて大暴れ。内弁慶犬。
基本的に、人が好きな犬。甘えたに育った犬は、自分から人が離れることを極端に嫌がる。
私がリュックを持って降りてくると、あ、こいつ遠くに行くな?と勘づき、愛想もへったくれもなくなり、ケージの中に籠城する。
最初こそは可愛いやつめ…と思っていたが、見送りぐらいしてくれないかな、と寂しさからバイバイと言って手を振って家を出ていたのだが、こうすることにより、「自分を置いていく」という合図が決まってしまったらしい。犬の中で。
この手を振り、バイバイという言葉を口にすると、唸るでもなく吠えるでもなく、歯茎をむきだしにして威嚇するようになってしまったのである。顔は、信じられないほど凶悪だ。
それを面白がってしばらく散歩に行くときや、用事があって外に出るときなどに続けていたら、ついに犬がいるリビングを私が離れると歯茎を剥き出すようになった。
なんたるわがままぷー。久しぶりに言った。わがままぷーだぞ、こいつ。
家族は、犬の吠える声がうるさいということで、あまりおもちゃで一緒に遊ばない。そのせいか、私がいると遊び相手であろうと認識しており、昼を過ぎると遊びに誘われる。
数々のおもちゃを前にして立ち尽くし、どれにするかなと言わんばかりにおもちゃを選ぶ犬。そんなことをされたら、飼い主は従うしかあるまい。
結局、私も犬には勝てないのだ。何せそれは、昔から。
私がいると、冒険心もそれなりに育つらしい。
犬が珍しくいつもと違う散歩コースを歩き始めたので、行ったことがあるんだろうか、と犬が足を向けるままに従うと、近くの土手に連れて行かれた。
珍しく土手沿いを自分からスタスタと歩く犬。
定期的に自治体から派遣された人たちが草を刈ってくれているのだが、その日はちょっと生い茂りがほどよいものだった。
用も足したし、帰ろうと声をかけて、段差を降りようとした。しかし、足を止めて首輪からリードがグイーン!と、よく見るマンガよろしく顔の皮がたるむ姿勢で抵抗する犬。
私はすっかり忘れていた。
この犬、段差や溝も怖いのである。そのため、段差を渡るときや降りるときに、犬とは思えない鈍臭さを発揮するのである。ましてや、溝にハマった犬。
「行くぞ!!」
さながら戦場を飛び出す戦士のように声を掛けると、なぜか犬はそこそこに生い茂っていた草木(かため)をくぐり抜けた。
「階段があっただろ!?」犬が通り抜けた後に跳ね返ってきた枝に攻撃をされながら言って、先陣を切った犬を見下ろすと、縦長の黒いひっつき虫がありえないほどついていた。
「なんでやねん!?」
閑静な田舎の住宅街に響く私の犬へのツッコミ。これ取るの最悪だ…と思って、自分の服の袖が目に映った。黒い縦長の粒たち。ひっつき虫だ。
「なんでやねん!?」
被害が私にまで及んでいた。
帰宅するなり、私は2階の自室にいる母に向かって「助けてくれ〜!!」と叫んだ。母は何事かと飛び出してきたが、犬と私がひっつき虫をつけている姿を見ることになろうとは思ってもいなかったらしい。
2人でどこ行ってきたん?と聞かれて、土手…と答えたら「土手なんか一回も行ったことないで!」と、母が驚いていた。
なんでやねん。バツが悪そうな顔で、ひっつき虫を取られている犬を見ると、神妙な顔をしていた。まだ私はこの犬と意思疎通がうまくいかない。
とにかく、私を騙すな。
そんなこんなな事件もあったりしつつ、朝の犬の散歩を終えて帰宅すると、私は洗濯物を干してしばらく自分の時間を取ることになる。
ちょっと長めのカップ麺を作るくらいの犬の散歩では私の運動量も足らず、散歩に出るかどこかに行くか、てくてくと目的もなく見慣れた田舎道を歩く。そして、昼になるとまた祖母と昼食を取るのである。
やってくる、犬の昼ごはん。
体内時計がしっかりしているのか、人のしていることでお昼がわかるのか、犬は昼になると落ち着きをなくす。お昼ご飯はちゅーるだ。秒で食べ終わるので、もっと味わってほしいと私は常々思っている。
これくらいになると、母が起きてくる。
実家に帰ってきて驚いたのは、家族の生活リズムの狂い具合だった。
私が言うのもなんではある話だが、一番おかしくなってしまっているのは母で、母は母なりに何も言わずに「役割」を果たすために必死になってしまったのだろう。父と兄は仕事に行くが、母は祖母がどうなるかわからないこともあり、仕事を辞めていた。
それからなのだろう。彼女の中で、祖母の面倒を見なければならないこと、家事を全てやり切らなければならないこと、しなければならない、という「役割」にずっと心を握られていたのだと思う。
兄や父は、非協力的だ。と、言うより、何をしたらいいのかわからないのだと思う。お願いすると、何でもやってくれる。けれど、母はそれが得意ではない。そして、それが彼女にとっての「役割」であることが重要になってしまっている。良くない循環のループだ。
他人のことだと冷静になれるんだよな…と思うが、それでも、見過ぎてしまうと、私が疲弊する。そんなことはわかっているが、他人同士が暮らしているのだ。もう少し何か手立てがないだろうか…と思いながら、私は自分のできることをやることにしている。
洗い物にしても、洗濯にしても、掃除にしても、自分が使っているので、自分のことのついでにやっている。やりたくない時は、やらない。でも、自分の分だけやっておく。
家族って難しいな。
あらためて生活を始めてみて、この言葉の意味を考える。持っている力、呪いに似たもの、目に見えない、何か。
私は別に褒められたいわけでもないし、助けたい…気持ちは多少あるが、それを免罪符にして、あなたたちもやってくださいよね、と言いたいわけではない。どっちかと言うと、好きでやっている。母は「何もしない」と責められがちだが、今まで私がいない間に蓄積された呪いが、彼女にはきっとある。何もしてないことなんてない。ご飯はいつも母が作ってくれている。五人分なんて、正直毎日面倒に決まっている。でも、それをやっている。
それじゃだめか?
できることを、できる人がやるんじゃだめか?向き不向きってあるじゃろ?昔はできても、今はできないことって、あったりするよね。逆も然りだ。何を言っていいわけでもない。家族だから?それは違う。
家族だから、何を言ってもいいわけではなく、ただ、家族だからこそ言えることもあるわけで。この塩梅が、難しいのだ。
人と生活している。それも、昔から良く知る癖強人間たちと。
よくよく考えてみたら、友人も面白い人が多いが、家族も変だしかなり癖が強い家だった。
怒鳴り声や大声が飛び交う家は、思春期の最悪な感情を思い出させることもあり、その点については辟易して、この前は爆発して私が大泣きし、翌日から幼馴染ののくまちゃんの家に転がり込むこともすでに起きている。私の爆発を察した友人も、会ってくれた。
困ったなあ。
そうは思いつつ、人の気配がしていて、会話の成り立つ家にいる安心感はすごい。ご飯があって、お風呂に入れて、寝床がある。
途方もない考えにヒン…となる日もあるが、私が「役割」として娘を演じないように、どうか人としてしっかり息ができるように、生活をしていくしかないのだ。
犬はその中でも癒しだ。
見ていると心穏やかになるし、愛おしさとか、無条件に人を信じきっている顔だとか、言葉のないコミュニケーションで、あなたと私、の関係が成り立っている。
言葉があるからこそ難しいこと。ないからこそ、安心感を預けられること。心穏やかにしたい時、私は犬を撫でて、犬のそばで昼寝をする。足先が寒いので、犬の背中に向かってつま先をねじこんでも、犬は何も言わない。仕方ないなあと言わんばかりに私に背中を預けてくれている。
昨日、引越しのタイミング諸々で後回しにしていた4回目のコロナワクチンを接種しに行った。おかげで体調がおかしくなってしまったが、私は布団の中で安心して眠っている。
不安ごとは絶えないが、不安がない生活も怖い。
今日も私の家には人の声が響いている。
新年を迎えた話
あけましておめでとうございます。
新年一発目のお日記が2週間ほど経過していますが、無事に新年を迎えることができました。
引っ越しの荷物も無事に届き、部屋の整理に親と揉めたり勉強机の運び出しで腰をやるのではないかと、恐れ慄きながらの作業部屋が無事に整い。
新年は、実家の近い友人たちと厄祓いじゃ!と初めて地元が近い人間同士でお詣りに行った。
おみくじは全員大吉、中吉、吉。良いのではないか〜と言いつつ、厄除けのお守りを買って、辺りをぶらぶらしながらお茶をして、晩ご飯を食べた。
ちなみに、今回の写真はスターバックスに行ったら私だけ何も書かれていないお手拭きを渡されて、愕然とし、スターバックスにほんのりとした恐怖感を抱いている(店員さんが教育されている、わけのわからないカスタマイズの話、云々かんぬんの理由で意味もなく怯えている)ため、やっぱり怖いねん、スターバックス……になった写真である。
ずっと実家にいるとおかしな気分になってきてしまうため、年始は初詣から幼馴染ののくまちゃんの家に行った。
のくまちゃん邸に着くと、玄関に入った時点で点けられていた電気を消され、中から「来た来た来た!」とけたけたと笑う声が聞こえていた。玄関で情けなく「あけてよお〜あけてよお〜」とお願いすると、扉が開かれた。
彼女の家の新入り、なつおことチワワ。やっと会えたね〜と言うも、顔をなかなか覚えてもらえず、部屋を離れる一瞬の隙に忘れられる。
私と幼馴染は顔が似ているため、「ほら!似てる!似てる!」と言い聞かすも、なつおは一生吠えていた。元気に育てよ……。
相変わらずの三毛猫には、腕を噛みちぎられそうになりつつ、まあまたいつでも来れるしな〜とゲームをしたり、翌日は喫茶店に行ったりなどをした。
近くにいるって助かる。なんかあったら平日でもいいし、行くか。そんな気分である。
それから部屋の整理の日々が続き、久方ぶりに会う友人に誘われて、初めての文楽鑑賞をした。中々ない、日本の伝統芸能に触れるというタイミング。事前にレクチャーをしてもらい、初めてなので音声ガイドを借りて観劇をした。
観劇したのは「義経千本桜」である。
去年一年、何かにつけてアニメの平家物語や、映画の犬王、そして鎌倉殿という大河でその辺りを見ていた私にとっては、うってつけの題材であった。
最後の段であまりの太夫の語りが心地よく、十分ほど意識を飛ばしたが、休憩を含めても3時間ほどの観劇なので許してほしい。また観に行きたいものの一つになった。奥深し。
それからまた日が進み、家の中で何となく家事の役割分担が決まってきて、私はあれこれと家の中で走り回っている。
それもこれも腰の重い母のおかげなのであるが、何かあると携帯を握っている母は、受験の時に私に「携帯ばかりを触るな!」と言っていた私そのもので、この人から携帯を取り上げた方がいいのでは!?と最近思っている。ツムツムとか、パズルゲームとかをやっている。ちなみに、父は一生ソリティア。
貴様ら……と私は静かにそれを横目に眺めつつ、ソシャゲを回している。この親あってこの子ありというやつか…。
そんな両親は、今日から家を空けている。
昨日の夜のことだ。晩御飯の支度をしている父に電話がかかってきた。珍しい。床に転がり犬と遊んでいた私は手を止めて、静かにしていた。
電話の雲行きは怪しく、父の声は沈んでいく。時折混ざる冗談と、そこにおるんか?と尋ねて、そうか、声が出ないのか、と笑いながらも困ったような声。私の父方の祖父母は亡くなっている。仕事関係の知り合いだろうか。
けれど、わしと二歳しか変わらんからな、と言う父の声で、ああ、と思った。
父の兄である、私の叔父に何かあったのだろう。
電話を切った父は大きく溜息をついた。
どうしたの、と尋ねれば「兄貴が肺がんのステージ4や」そう言って、項垂れた。
私に父方の祖父母がいないということは、父にはもう両親がないということでもある。私も母も、いつどうなるかわからないならとすぐに行った方がいいと、私はホテルの予約を両親の代わりに取り、手紙を書いて父に渡した。
叔父の記憶。
以前家族の話で書いた、叔父である。
最後に会ったのは四年前。父と叔父と煙草を吸って、私にもし子どもができたら孫代わりに、会いに行くからとおどけた約束をした叔父だ。
祖母によく似た不器用な叔父は、楽しみにしとると、これまた百点満点!とは言えないちょっとだけ不恰好な笑みだったのを覚えている。
父は元気がなく、今朝も「ちゃんと寝れんかった」と洗濯物を一緒に干していると、ぽそぽそと呟いた。
兄弟がいなくなるかもしれない。それって、両親とはきっとまた違う。私の兄が、もしそうだとしたら、それはとてもとても辛いし悲しいことだ。「そりゃそうだよ」うまい言葉は見つからない。親でも、友人でも、変わらない。その人の痛みにはその人にしかわからないのだ、と私はいつも思ってしまう。
両親は私の病院を送りがてら、出発した。遠い遠い関東に二人で向かって。事故に遭いませんように。仲良く行ってこいよ〜。と思いつつ、見送った。
本当は今日、父に買った誕生日プレゼントが届いて渡す予定だった。
両親は明日帰ってくる予定だ。少しでも、帰ってきた時に笑ってくれるといいのだけれど。
天気の悪さも相まって、ほんの少し暗いニュースが飛び込んできて、私は今日の晩ご飯の献立を考えながら、ソファで犬と横たわっている。