やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

人とまた暮らし始めた話

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先月一回しかお日記書いてないな!?とびっくりしつつ、二月になった。私は知っている、二月が光のような速さで終わっていくことを…。

 

さて、実家に帰ってきて二ヶ月が経過した。

私の病気自体は一進一退。何もできない日もあるし、何でもできる!と思う日もありつつ、病院は転院し、前まで知らなかった情報を色々と与えられ、エ!?と思うこともあった。

なんじゃそら〜とひっくり返りそうになったが、薬を少しずつ変えていっている。

 

そんな私の生活は、ああ、人と犬と暮らしているな、という感想である。

実家に帰ってくると、人と暮らすことが強制イベントで起きるため、まずはその家のルールに慣れなければならない。家族と言えど、他人。朝は何をしなくてはならなくて、どういう感じで生活をしているのか、そういうものを見定めて、自分の生活を確立させていく。

 

犬。

私が生まれてから、三代目の犬になる。保護犬として親犬がいないところを保護されて育った愛犬は、おそろしいほどに家族たちに蝶や花よと育てられ、体格の割にビビりで内弁慶な犬に育っていた。

まず、この犬だが、朝昼晩の食事がある。

私より規則正しい生活をしている。信じられん…。朝起きると、大体は朝早くに家を出る父に朝ごはんをもらっているのだが、たまにもらっていない日がある。

そういう時、犬は顔と仕草でアピールをしてくる。ご飯の器を舐め、私の腕にガッと前足を乗せるのだ。最初は散歩に行きたいアピールだろうか…と思っていたら、朝ごはんの要求だった。わからん。

 

祖母はこの3月で御年93歳になるのだが、昨年生死を彷徨い、このままだと固形物の食事は無理でしょうと言われた状態から奇跡の復活をした人である。

足腰は弱ってしまい、耳もすっかり遠くなってしまったが、久々に帰ってきた実家で見た祖母は思っていたよりもしっかりしていて、驚かされた。

しかし、そうは言っても介護認定がされている人だ。一人で出来ると言っても、万が一、億が一、何かあったら困る。

祖母の朝は早い。なるべく祖母の起きる時間に、起きるようにしている。もちろん全く無理な日もあるが。朝は大体、祖母、私、犬の三つ巴である。

祖母の朝食の準備を手伝いながら、仏壇からお茶と水を下げてくる。一番茶は仏様に。我が家のしきたりである。親を沸かし、お茶を淹れ、祖母の水筒の準備をし、再び仏壇の前へ。

チーンチーン!と景気良く…あれ…なんて言うんだっけ…錫の…とにかくあれを鳴らし、「おはようございまーす!」と仏壇の曽祖母と祖父へ挨拶をする。すごく大きい声で挨拶をするので、祖母が「おじいちゃんびっくりしとるで」と大体毎日言う。

祖母は最近、同じことを何度も何度も話す。けれど、私はなるべくそれを何度も聞くようにしている。登場人物は大体わからないのだが、たまに気になって質問をすると答えてくれるし、毎日新しい物語を聞いているようにも思えるのだ。

 

祖母の朝食が始まり、犬にごはんをあげると、のろのろと私が自分の朝食の準備をする。

うちは毎朝、パン、カフェオレ、チーズ、ヨーグルトだ。

甘やかされて育った犬は、チーズの銀紙をぺりぺりとめくる音で飛んでくる。こいつ…ずっとチーズをもらって育っている…。

それからヨーグルトの蓋を開ける。その音で再び犬は駆けつける。ぺろぺろとヨーグルトの蓋についたヨーグルトを舐め、空になった器のヨーグルトも舐める。

前の愛犬もそうだったが、どうしてうちの犬は乳製品が好きなのだろう。

犬自身がそれを欲さない時は、何をしていても無視。私も欲しがらない限りは、いるか?とは声をかけない。基本的に私は放任主義である。

 

そうこうしているうちに、犬がそわそわしだす。パジャマに上着を羽織ったままの私に、散歩を促すのである。

「こんな格好じゃ行けね〜よ…」

私は犬と意思疎通を取る時、必ず喋りかけている。一人で。頭の回らない朝。洗い物を終わらせて、洗濯機を回しに行き、私は服を着替える。上着を着て、マスクをつけると犬が吠える。散歩だ!!!朝からうるせ〜…と思いつつ、散歩に出る。

のだが、この犬、本当にビビりに育ってしまい、行く先に犬がいたり人がいたり、車が停まっていると引き返す。初めてそれを見た時、私は何も知らなかったので、帰って早々「何こいつ!?散歩しないよ!?」と言ったら、「いつものことやねん」と家族に言われた。

宅急便のトラックにびっくりして、溝にハマる姿も見た。犬って溝にハマるんだ…?

 

散歩時間、驚くほどに短い時は5分ほどで終わる。なんなら家の庭で終わることもある。

散歩ってなんだよ。

前の愛犬は今の犬の三分の一ほどの体重だったが、30分から1時間は歩く犬だった。帰宅すると、顔から体まで拭いてやるのだが、その時はかなり賢く、拭くべき足を順番に上げてくれる。そんなに家が好きかい…と思いつつ、私の運動にもなりゃしねえ…と、リビングで大したこともしていないのにハスハスと息を切らす犬を困った顔で見ることになるのだ。

 

その代わり、家の中ではおもちゃを振り回し、吠えて大暴れ。内弁慶犬。

基本的に、人が好きな犬。甘えたに育った犬は、自分から人が離れることを極端に嫌がる。

私がリュックを持って降りてくると、あ、こいつ遠くに行くな?と勘づき、愛想もへったくれもなくなり、ケージの中に籠城する。

最初こそは可愛いやつめ…と思っていたが、見送りぐらいしてくれないかな、と寂しさからバイバイと言って手を振って家を出ていたのだが、こうすることにより、「自分を置いていく」という合図が決まってしまったらしい。犬の中で。

この手を振り、バイバイという言葉を口にすると、唸るでもなく吠えるでもなく、歯茎をむきだしにして威嚇するようになってしまったのである。顔は、信じられないほど凶悪だ。

それを面白がってしばらく散歩に行くときや、用事があって外に出るときなどに続けていたら、ついに犬がいるリビングを私が離れると歯茎を剥き出すようになった。

 

なんたるわがままぷー。久しぶりに言った。わがままぷーだぞ、こいつ。

 

家族は、犬の吠える声がうるさいということで、あまりおもちゃで一緒に遊ばない。そのせいか、私がいると遊び相手であろうと認識しており、昼を過ぎると遊びに誘われる。

数々のおもちゃを前にして立ち尽くし、どれにするかなと言わんばかりにおもちゃを選ぶ犬。そんなことをされたら、飼い主は従うしかあるまい。

結局、私も犬には勝てないのだ。何せそれは、昔から。

 

私がいると、冒険心もそれなりに育つらしい。

犬が珍しくいつもと違う散歩コースを歩き始めたので、行ったことがあるんだろうか、と犬が足を向けるままに従うと、近くの土手に連れて行かれた。

珍しく土手沿いを自分からスタスタと歩く犬。

定期的に自治体から派遣された人たちが草を刈ってくれているのだが、その日はちょっと生い茂りがほどよいものだった。

用も足したし、帰ろうと声をかけて、段差を降りようとした。しかし、足を止めて首輪からリードがグイーン!と、よく見るマンガよろしく顔の皮がたるむ姿勢で抵抗する犬。

私はすっかり忘れていた。

この犬、段差や溝も怖いのである。そのため、段差を渡るときや降りるときに、犬とは思えない鈍臭さを発揮するのである。ましてや、溝にハマった犬。

「行くぞ!!」

さながら戦場を飛び出す戦士のように声を掛けると、なぜか犬はそこそこに生い茂っていた草木(かため)をくぐり抜けた。

 

「階段があっただろ!?」犬が通り抜けた後に跳ね返ってきた枝に攻撃をされながら言って、先陣を切った犬を見下ろすと、縦長の黒いひっつき虫がありえないほどついていた。

「なんでやねん!?」

閑静な田舎の住宅街に響く私の犬へのツッコミ。これ取るの最悪だ…と思って、自分の服の袖が目に映った。黒い縦長の粒たち。ひっつき虫だ。

「なんでやねん!?」

被害が私にまで及んでいた。

 

帰宅するなり、私は2階の自室にいる母に向かって「助けてくれ〜!!」と叫んだ。母は何事かと飛び出してきたが、犬と私がひっつき虫をつけている姿を見ることになろうとは思ってもいなかったらしい。

2人でどこ行ってきたん?と聞かれて、土手…と答えたら「土手なんか一回も行ったことないで!」と、母が驚いていた。

なんでやねん。バツが悪そうな顔で、ひっつき虫を取られている犬を見ると、神妙な顔をしていた。まだ私はこの犬と意思疎通がうまくいかない。

とにかく、私を騙すな。

 

そんなこんなな事件もあったりしつつ、朝の犬の散歩を終えて帰宅すると、私は洗濯物を干してしばらく自分の時間を取ることになる。

ちょっと長めのカップ麺を作るくらいの犬の散歩では私の運動量も足らず、散歩に出るかどこかに行くか、てくてくと目的もなく見慣れた田舎道を歩く。そして、昼になるとまた祖母と昼食を取るのである。

 

やってくる、犬の昼ごはん。

体内時計がしっかりしているのか、人のしていることでお昼がわかるのか、犬は昼になると落ち着きをなくす。お昼ご飯はちゅーるだ。秒で食べ終わるので、もっと味わってほしいと私は常々思っている。

これくらいになると、母が起きてくる。

 

実家に帰ってきて驚いたのは、家族の生活リズムの狂い具合だった。

私が言うのもなんではある話だが、一番おかしくなってしまっているのは母で、母は母なりに何も言わずに「役割」を果たすために必死になってしまったのだろう。父と兄は仕事に行くが、母は祖母がどうなるかわからないこともあり、仕事を辞めていた。

それからなのだろう。彼女の中で、祖母の面倒を見なければならないこと、家事を全てやり切らなければならないこと、しなければならない、という「役割」にずっと心を握られていたのだと思う。

兄や父は、非協力的だ。と、言うより、何をしたらいいのかわからないのだと思う。お願いすると、何でもやってくれる。けれど、母はそれが得意ではない。そして、それが彼女にとっての「役割」であることが重要になってしまっている。良くない循環のループだ。

他人のことだと冷静になれるんだよな…と思うが、それでも、見過ぎてしまうと、私が疲弊する。そんなことはわかっているが、他人同士が暮らしているのだ。もう少し何か手立てがないだろうか…と思いながら、私は自分のできることをやることにしている。

 

洗い物にしても、洗濯にしても、掃除にしても、自分が使っているので、自分のことのついでにやっている。やりたくない時は、やらない。でも、自分の分だけやっておく。

 

家族って難しいな。

あらためて生活を始めてみて、この言葉の意味を考える。持っている力、呪いに似たもの、目に見えない、何か。

私は別に褒められたいわけでもないし、助けたい…気持ちは多少あるが、それを免罪符にして、あなたたちもやってくださいよね、と言いたいわけではない。どっちかと言うと、好きでやっている。母は「何もしない」と責められがちだが、今まで私がいない間に蓄積された呪いが、彼女にはきっとある。何もしてないことなんてない。ご飯はいつも母が作ってくれている。五人分なんて、正直毎日面倒に決まっている。でも、それをやっている。

それじゃだめか?

できることを、できる人がやるんじゃだめか?向き不向きってあるじゃろ?昔はできても、今はできないことって、あったりするよね。逆も然りだ。何を言っていいわけでもない。家族だから?それは違う。

家族だから、何を言ってもいいわけではなく、ただ、家族だからこそ言えることもあるわけで。この塩梅が、難しいのだ。

 

人と生活している。それも、昔から良く知る癖強人間たちと。

よくよく考えてみたら、友人も面白い人が多いが、家族も変だしかなり癖が強い家だった。

怒鳴り声や大声が飛び交う家は、思春期の最悪な感情を思い出させることもあり、その点については辟易して、この前は爆発して私が大泣きし、翌日から幼馴染ののくまちゃんの家に転がり込むこともすでに起きている。私の爆発を察した友人も、会ってくれた。

 

困ったなあ。

そうは思いつつ、人の気配がしていて、会話の成り立つ家にいる安心感はすごい。ご飯があって、お風呂に入れて、寝床がある。

途方もない考えにヒン…となる日もあるが、私が「役割」として娘を演じないように、どうか人としてしっかり息ができるように、生活をしていくしかないのだ。

 

犬はその中でも癒しだ。

見ていると心穏やかになるし、愛おしさとか、無条件に人を信じきっている顔だとか、言葉のないコミュニケーションで、あなたと私、の関係が成り立っている。

言葉があるからこそ難しいこと。ないからこそ、安心感を預けられること。心穏やかにしたい時、私は犬を撫でて、犬のそばで昼寝をする。足先が寒いので、犬の背中に向かってつま先をねじこんでも、犬は何も言わない。仕方ないなあと言わんばかりに私に背中を預けてくれている。

 

昨日、引越しのタイミング諸々で後回しにしていた4回目のコロナワクチンを接種しに行った。おかげで体調がおかしくなってしまったが、私は布団の中で安心して眠っている。

不安ごとは絶えないが、不安がない生活も怖い。

 

今日も私の家には人の声が響いている。