服とおしゃれの話
今日はお昼にオイルおにぎりを作って食べたんだけど、あまりの美味しさにびっくりした。
誰か早く私に「美味しいよ!」て教えてくれたらよかったのに…。しばらく食べ続けることになりそうな予感を感じている。おむすび、うんめ〜〜〜〜!!
何の記事を書こうかな〜と悩んだ結果、今日は久しぶりに友達にもらったTシャツを着たのと、大学生時代に買ったジーンズを履いたので服の話にしようかと思う。
高校生まで、私には衣服の選択権がなかった。基本的に私の家には小遣い制度というものがなく、買いたいものを自由に買えるお金というものが手元になかったからだ。
むしろあの頃自分はどうやって生活を成していたのかが不思議なのだけれど、まあ、なんとかやってたんだろう。
じゃあ、服の選択権を持っているのは誰かということになると、それは母親になる。
母親と買い物に行き、気まぐれな「何か欲しい服ある?」が、私の服の選択分岐ルートだった。こんなシミュレーションゲームがあったら精神すり減りすぎる。毎回死ぬほど悩む。その一着が、私のワンシーズンの外行きの服になるからだ。
でも、欲しい服とか可愛い服っていうのは大体高い。母親からの却下!が出ると、このシミュレーションゲームはバッドエンドを迎えるのである。
けれど、上着に関しては母はセンスが良かった。今思い返せば、こと上着(冬物にかぎる)は幼い頃からムスタングコートや、綺麗な色のファージャケット、細身で形が良いチェスターコート、などなど。そのセンス、他にも活かしてくれや…と思うものの、あの上着、今も手元にありゃな〜!!と思うようなものが多いように思う。
そして、そんなシミュレーションゲームから解き放たれた大学生。
学生生活を経た方ならおわかりになると思うけれど、自分でお金を稼ぐということが可能になる。
そして、始まる「服装の迷走」
これは大体大学二年生くらいまで続き、三年生になるとようやく自分に似合うスタイル、服、好きなもの、がわかるようになるシステムになっているらしい。
かく言う私も、かなり翻弄された側で、エスニック、森ガール、モード系、ユニクロ・無印統一、ありとあらゆるものを試し、現在に落ち着いた。
もう服とかわからんわ!の時期、私はジーンズと無地のTシャツで外に出ている女性に憧れて(脳内では深津絵里が微笑んでいる)めちゃくちゃシンプルなところに落ち着こうとしたこともあった。素材重視、みたいな。結果、こんなん私とちゃう!となり、無理だったわけですけども。
そして社会人になった今、周りの人たちはハイブランドとまではいかなくても、そこそこ良い値段のする服を着て生活をしている人たちが周りにいる。でも、欲しいなーとは思わない。それなりに試行錯誤してきて、似合うもの、似合わないものがわかってきたからだ。
でも、趣味の一つにハイブランドのシーズンルックを見るというものがある。着れもしなけりゃ、買えもしない。
けれど、見るのはタダ。今はこういう重ね着が流行ってるのか〜とか、アイドルがハイブランドのシーズン真っ只中衣装を着ているのを見て、いいじゃん!と手を叩いて喜んでいる。
二次創作や、創作活動において、私は「服」についてこだわって描くことが多い。
この人にはこういう服が似合いそうだな、とか、アイドルが好きなので、アイドルのようにデザインが似ているけれど形が違うものを着せてみたり、こういう人は大体こういう服を着ている、とか。
そこでよく感想としていただくお言葉が、お洒落ですね、というとても嬉しいお言葉なのだけれど、これがなんともまあ、私には取り扱いレベルが「難」な言葉だったりする。
時代や年齢というのは、どんなに自分が頑張っても変遷していくもので、そこに「服」は必ずついていく。この更新が遅れてしまうのが、私はとてつもなく怖い。
服装分岐ルートの選択肢があまりに少なかった自分は、「服」に対してこだわりがあると同時に、怖さがあるのだ。
お洒落なものを描ける人間は、お洒落なのですよね!?という自分勝手な強迫観念。そもそもお洒落って何だ!?
最近は、友人たちと話していると、年相応なんて話も出てくる。年相応!?て、何!??!
多分、年齢的なものと経済的なもので、この辺の服が買えるといった見えないラインみたいなものが存在している。
あとは、服の丈。肌の露出。
この前会った友人が、ミニスカートを買うかどうかを悩んでいた。
どんなの?と言って見せてもらったら、細身で綺麗な彼女にはとても似合うと思ったが、彼女は「丈がな〜!!でもこれ逃したらこんな短いのはもう履けへんと思う」と言っていて、私は「恐れるな!着ろ!!似合うぞ!!」と、他人に対しては強気なため言い切るということがあった。
自分の見た目というのは、自分の物差しではさっぱりわからないことがある。というか、ほとんどがそうだ。
特に、「服」なんてものは、自分が選んで買って、着ているという事実のまま街を歩くことななる。
でも多分きっと、自分が着たいと思うものを、いいじゃん!と思うこと。それが一番良いに決まっている。
これ良いと思ったけど、ちょっとどうしたらいいのかわからないな…は、持っているものとか、新しく買ったものとうまく組み合わせられるかもしれない。
服はパズルゲームに似ていると思う。
バラバラの形をしたパズルがうまく重なる瞬間がちゃんとある。と、信じている。それは、誰も知らないパズルの正解の形だ。似合っている、いないは、自分もそうであれば、自分以外がそうすれば似合うかもしれない。だから、自信を持て、私……。と、実はこれは書きながら自分を励ましています。
お洒落。この言葉と、センス、という言葉を私は呪いみたいな言葉だ…と正直思っている。自分の中でしっかりとした確証を持てない時の方が多いからだ。
自分は今日もお洒落かどうかはわからない。新しい組み合わせで街に出た時、これって正解ですか?と思うこともある。
だけどきっと、私は「服」が自分を表す一つだと思っているから、こんなにも緊張したり、怖くなったり、悩んだりするのだと思う。
服を選んだり、買ったりするのは大変な作業だ。でも、時や年齢を重ねても、できれば悩むことはやめたくはないなと感じている。
自分に無頓着でいたくないのだろう。服に興味がないからと言って、無頓着だとは思わない。ただ、私にとっては、「服」はそういう尺度を持っている表現なのだと思うのだ。
私は、インスタグラムに、元気の出るTシャツを着た日に写真を上げたりしている。
そうしたらこの前、大学の同期から「私もそのTシャツ持ってる!オソロや!」と元気なメッセージが届いた。
彼女は、学生時代からいつもシンプルでお洒落な(わからないと言いながら使ってしまってスマン…)人と思っていた友人の一人だった。
そのTシャツは、最近安いと話題のアプリ、シーインで買った虎が2匹プリントされたTシャツだった。
私のセンス、まだ捨てたものではないなと思った瞬間である。