やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

家族の話 そのいち


天気が悪くて、色々心配ですね。

どうか豪雨がひどい地域にお住まいの方、被害に遭われている地域の方は自分の安全を第一になさってください。



私は今日は二週間に一回の通院に向かいながら記事を書いています。


書いていたら長くなる予感がしたので、二つくらいに分けて記事を書くことにした。思い出話みたいなものだけれど、大切なものは記しておこう…という精神が最近強いので、書いておく。


現在、私は一人暮らしをしているので実家を離れている。実家は関西地方。両親と兄、それから祖母、愛犬が実家で一緒に暮らしている。

大学で関西圏内の大学に進学し、地元の近い友人(前の記事でミニスカートを買うかどうか悩んでいた友人だ。彼女はギャルなので、以下ギャルと呼びます)と仲良くなった際、「やばいとこ住んでるやん。そこ行って帰ってこーへん友達おってんけど!」と言われた。それは私の住んでいる地域が悪いんじゃなく、ギャルの友達にも責任があると言っておいたが、彼女は私たちの住んでいる地域を「スラム街」と呼んでいる。んなわけあるか。まあ、治安は良くないけど……。



そんなわけで、実家には私を除いた四人と一匹が生活をしている。


元々は、母方の曽祖母、祖父も一緒で七人家族だった。この二人は私が小学低学年の間にどちらも亡くなった。


曽祖母は、よく知らないけど祖母に意地悪だったらしい。嫁姑問題である。私は、いつも母に間違えられていた。自宅に離れがあり、曽祖母はそこで生活をしていたのだけれど、私は五歳になるまでずっと家にいたので、よく離れに遊びに行って曽祖母のよくわからない話を聞いていた。恐れを知らぬ、幼少期。「私はおかーさんじゃないよ!!」と言って離れを出ることが大半だった。

私が知っている曽祖母はいつもベッドに横たわっている。それでも、まだ記憶があるぶん、良かったなと思う。


祖父は昔数学の先生だったらしい。私は祖父の本名が何か知らんけど今も好きだ。思い出す度、良い名前だなと思う。

ナンプレが趣味で、私が幼少期の時にはもうとっくに定年退職をしていたので、日課の病院への通院、散歩、近所の小さな本屋でナンプレを買って帰って来るを習慣にしていた。

一番小さい頃の記憶は、祖父がまだ車を運転していた時のことだ。多分、冬のイベントか何かに向かう車中だ。祖父は頭がハゲていたのだけれど、私は後部座席に座り、その祖父の頭をぺちぺちと叩くのが好きだった。危ないからやめなさい。肩車をしてもらった記憶もある。その時もハゲ頭を叩いていた。あと、おばQの絵を描くのがすごく上手かった。

「おじいちゃんに似てるね!」と喜んでいたが、本当にハゲいじりがひどい。

言葉数はあまり多くなかったように思う。

それでも、先生らしい厳格さと不器用さみたいなものがあって、もう一度会ってみたい人だ。


実際、この祖父に関しては高校生の頃不思議な体験で再会したことがある。幽霊体験的なあれで。

書いたとおり、私が高校生の頃には祖父はとっくに亡くなっている。高校生の私はというと、当時家の中の空気が良いとは言えない状況で、密かにストレスを溜め続けて喘息を発症したり、胃腸炎で高校を休むことはしょっちゅうだった。

その日も調子が悪く、両親は働きに出ており、祖母は病院に行っていて、兄はその頃大学生で一人暮らしを始めていたので、私一人きりだった。「起きたい時にごはん食べなよ」と言われ、熱で朦朧とする意識の中リビングに降りると、祖父がいた。

熱のせいか…?と思った。

その頃は本当によく色々見てしまう時期だったので、でも確かに、今は祖母の定位置になったそこに座って、ナンプレを開いている祖父がいたのである。


こうなったら仕方ない。その時期私が学んだのは、妙な反応をしないこと。普通にするか…と朝ご飯の支度をして、私は私で兄がいなくなったことで兄の指定席だった場所に座った。祖父の隣の席だった。

祖父は「おはよう」と言った。普通。マジで普通に話しかけてくるじゃん。と思った。

「じーちゃん、何してんの?」と聞いた記憶がある。祖父は特に答えてくれなかったけど、「兄ちゃんは元気か」とか、「お前は体が弱いんやな、相変わらず」とか、そういう世間話をたくさんした。

この人はここにいない人だってわかってるんだと思って、とりあえず一時間くらい家族の話とか色々話をした。祖父は楽しそうだった。と、思う。

そうして一時間くらいが経った頃、「トイレに行ってくるわ」と言って祖父は立ち上がった。

多分これはもう帰ってこないな、と思ったら案の定祖父はお手洗いから戻ってくることはなかった。

何をしに来たのかは教えてくれなかったけれど、きっとまあ心配してくれていたのだろう。ちなみに、解いていたナンプレを見たら、祖父の筆跡は残っていなかった。あんなに鉛筆動かしてたのに。

ちょっとだけ残念だった。



そして、今も元気な祖母。九十歳を越えており、昨年病気をして生死を彷徨うものの、驚きの生命力で今も自分で歩くしご飯を食べる。

私はこの前実家に帰った際、もっと弱っている姿を想像して怯えていたのだけれど、思っていたよりも元気で安心した。

祖母は元々戦争が起きるまではいいところのお嬢さんだったらしく、家にはお手伝いさんがいて、グランドピアノがある家に住んでいたのだという。すげ〜と感心していたら、「ごめんね、その時のままでいられたらよかったんやけど」と謝られたことがあって、それよりも祖母が生きていてくれただけで本当に良かった。じゃないと、私はここにいない。祖母との会話で印象に残っていることだ。


それから、これも高校生の頃の話だ。

その日は私の気分が上がらなくて、仮病で学校を休んだ。母は好きにせえ、という感じで、私は私で遅めの反抗期だったので適当な理由をつけて休んだのである。

家には祖母と私が二人。

祖母は私が仮病を使って休んでいるのなんて、お見通しだったのだろう。母が出て行ってからのろのろとリビングに降りて、祖母と話していたら、祖母が急に「水族館に行こう」と言い出した。

水族館!?急!!と思ったけれど、平日だしゆっくりできる、と祖母は言って、私も水族館や動物園が好きなので乗り気だった。二人で電車に乗って、海沿いの水族館に行った。何をしたかはあんまり覚えていない。

でも、大きくなってから祖母と二人きりでどこかに行ったことなんてなくて、楽しかったね、と家に帰った。ちなみに、私は病気の設定だったので、これは母親には内緒のことだ。


両親や兄と違って、私からすると祖父母や曽祖母は、距離感が少し遠い人たちだ。血が繋がっているのはわかるけど、それは遺伝子とかいう云々なので、よくわからない。

家にそういう人がいるというのは、私にとってかなり助かることだったのだと思う。兄が実家を離れてからは特にそうだった。


私の好きなマンガ、ハチミツとクローバーの中で、真山が「声っていつまで覚えてられるんだろう」と思うシーンがある。

読んだ当初は、真山って本当…と思っていただけだったけれど、今はその真山の言いたいことがよくわかる。声って、覚えていられない。

でも、こういう声だったはず、みたいなそれは記憶を辿ると残っているように思える。喩え方も、表現の仕方も、わからないけれど。大切に覚えておこうとか、何回も思い出そう、と私はいつも思う。


実家に帰ると、私は必ず仏間の仏壇の前で手を合わせる。曽祖母の写真はないけれど、祖父のピン写が飾られている。微笑みはかなりぎこちなく、むしろ無表情に近い。

もう一回、曽祖母とも、祖父とも話すことができたらいいのになと思っている。

でも祖父はかなり厳格な人だったということなので、今の私は言い合いとかしそうだなー。それは超嫌。でも言い合いもありかもな。


とか考えつつ、激混みの薬局で順番待ちをしている。みんな、健康になってくれー!(私もな!)

そのにへ続く。