やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

第二の思春期の話

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どうもご無沙汰しています、丸いです。

日記…半年以上前か…と思わず月日の流れる速さに驚いている。お前毎回日記書く度に驚いてないか?という感じだが、半年もあれば赤子は寝返りを打つようになるし、犬は散歩デビューもとっくに終わっている。

 

さて、この半年何があったか。

振り返ってみると、色々と変化、それから起きた出来事は少なくはない。

車の免許を合宿で取って、今や我が物顔で街を走り回っているし、中古車ではあるものの、新しい車を納車したし、除霊に行ったり、映画を観に行ったり、初めてのことを経験したり、仕事は進んだり進んだりしていないこともある。まあ、その辺の話はおいおいと言った感じである。

 

そんなこんなで、今回は自分じゃなくなる話という日記。

 

五月のことだ。

度々日記にも出てきている、大学時代の同期のマブから連絡があり、五月のGW開け頃に会うことになった。

彼女は十二月にお子を産み、彼の誕生日は奇しくも私たちの同期と同じ誕生日に生誕した。そこからちょうど半年。出産はそれはそれは大変だったそうだが、ようやく子育ても慣れて落ち着いてきたということで、外に出る元気も出てきた、とマブは言った。

その時点で、元気の有り余る彼女が「外に出れる」と言うような言い回しだったのが不思議だった。

 

自分で言うのもなんではあるが、私は人の変化に敏感な方だ。

その日会う場所も悩んでいて、結局学生時代から行きつけの喫茶店にお邪魔したら?と、提案して、そこになった。

何やらいつもと少し様子が違う。そうは思いつつ、私は私で他の仲の良い同期に収集をかける係として、いつぞやの日記で書いたUSJに一緒に行った友人たち(東京にいるギャルは難しそうだと思って連絡はしなかった。すまん)に声をかけた。

 

いつまでたっても変わらない話 - やわらかい

 

 

結果として、ギャル以外は全員集まった。

はーちゃん、おっとり、そしてマブ、私。

おっとりは誰が集まるのかを知らず、私の姿を見た瞬間大喜びをしてくれて、はーちゃんもおっとりが来ることは知らなかった。まあ、集まれたからいいじゃない、というゆるさで再会を喜び、私たちはマブのお子に初めて会うことになった。

イヤーーッ!!!お子を見た途端、騒がしくなる大人たち。顔がマブに似てる、マブのパートナーにも似ている、いや、それはそう。二人の子どもだから。当たり前のことを口にしながら、ごめんね!?うるさい!?とか、何もわからないだろうし緊張しているお子に声をかけ続けた。

 

大学の近くのそこは、私たちが制作の休憩の合間に集まる場所だった。

私たちが学生の頃を知っている喫茶店のマスターは「うるさいなあ」と笑っていた。私たちが初めて出会った時、同じ時間を過ごした時と変わらなくなる瞬間。話したいことは山のようにあれど、流れる時間は穏やかで速い。

私は私で家にあったハゲワシのぬいぐるみを持って行った。サイズ的にちょうどいいかなと思ったが背中になぜか小さな穴が空いていて、マブに「穴が空いていて…」と報告すると、なんで?と言われた。そうだよね、私もわかんない。

マブは裁縫が得意だ。鈴でも入れて閉じとくわ、とさすがの一言で、お子は帰り道そのぬいぐるみをずっと握っていてくれていたらしい。

写真を見てあまりの可愛さに絶叫して、母親に見せたくらいだ。

 

子どもは、私にとって未知の生き物である。

育てたこともないし、弟や妹がいたこともなく、従姉妹ともそうそう交流がない。

だから、私が知っている子どもというのは、友人や知り合いの子どもたちや、犬の散歩で見る近所の小学生とか、中学生、そんなもの。

でも、私にとって未知であるということは、怖いという感覚にも近い。

 

ゆっくりと話していると、マブのお子はおねむの時間になって健やかな眠りに落ちた。

そこにいるみんなが心を緩めていて、ほんの少し声を小さくして、私たちの話をし始めた。

でも、大変でしょう、と確か私は言ったはずだった。

 

犬と人はそりゃ違うだろうが、小さな生き物というのは、小さな体からは信じられないエネルギーを発する。

何も知らないし、子どもの世界は自分を見てくれている母親と、父親。そんな認識もないのだろうが、子どもが何かを訴えるとするなら、彼ら、そして、彼女。

どれだけ可愛くて、愛おしくて、彼女の両親が手伝ってくれても、そこにいるのは言葉の通じない生き物だ。こんなことを言ったら、子育てをしている親御さん界隈に怒られそうではあるが、でも、事実そうだろう。

こちらの意図とは反したことをするだろうし、自分の思い通りには当たり前にならない。

そのままならなさに、悩んだり辛くなったり、どうしたらいいのかわからなくなる、そんな途方のなさが想像できた。

 

マブは、昔っから涙もろい人だった。

情緒豊かで、感情の起伏もしっかりしている。

どんなことも平然とした顔で乗り越える人だったけれど、その時ばかりは、ぽつりとこぼした。

「自分が自分じゃなくなるみたいだった」

それと同時にほろりと落ちる涙。

私も彼女と同様、涙腺は弱い方でその言葉を聞いた瞬間、ぐっとこみあげるものがあって、マブの肩をさすりながら泣きそうになった。

はーちゃんも同様。大変だったね、頑張ったね。おっとりは泣かないで〜とにこやかに微笑んだ。

 

それ以来、私の頭の中には「自分が自分じゃなくなるみたいだった」という言葉が残っている。

 

自分を奪われる感覚。

いつもはできていたことが、できなくなること。愛おしいと思っているのは間違いないのに、これが正しいのか、間違っているのかもわからなくなってくるのだろうか。

そう言えば、外にも出られなくなったと言っていた。気を遣うことも多いからだろう。

ああ、だからどこに行けばいいのかと悩んでいたのか、そんなことにも思い当たって、私はまた私のわからない世界を見た気がしたし、私の浅薄さを感じもした。

 

二十代後半、そして三十代に差し掛かる時、人間は妙な焦燥感に駆られる。

人にもよるだろうが、私は常にそういうものに追いかけられていたような気がする。今はまだマシになった方だけれど、この感覚に似ているものを探した時、感情の多感さ、考えても仕方がなかったりすること、そんなものがどうも『思春期』に似ているなと思った。

 

『思春期』と呼ばれる時期は、大体中学生から高校生にかけての年代に通過するものである。この記事を読んでいる人にもおそらくあっただろう。

でも、それとよく似た多感な時期がこれくらいの時期にもやってくるんじゃないの?第二の思春期と呼ぶべきなのでは。そんなことを考えていたら、いつも聞いている安住アナの日曜天国でもそのような話題が出た。

 

あー、やっぱりみんなあるんだ。

そういうものなんだ。私たちまだ多感な時期真っ最中なのかも。『思春期』って、振り返ると恥ずかしいくらい尖っていたり、何かを感じ取るアンテナが色んなものを受信しすぎて、いっぱいいっぱいになったりする。

『思春期』だからね。そんな一言で色んな感情は、よくあるものとして片付けられるし、ちょっとした黒歴史、みたいにカテゴライズされているように思う。

でも、私たちってそれが蔑ろにされることが一番嫌ではなかったか?と、思うのだ。

この感情に一緒に向き合ってくれるのは、一番近くにいる大人ではなくて、私の場合はやはり友人という存在だった。マブになんと声をかけたものかと悩んだが、私から言えるのは本当によく頑張ってるよ、という陳腐な褒め言葉しかなかった。

だけど、私たちはあの時確かに、あなたは頑張っているよとか、大丈夫だよ、とかそんな言葉が欲しかったはずなのだ。

そんな思いはみんなしてるよ、とか、そういうことじゃなく。

 

第二の思春期。私たちがぶつかる壁は様々なのだ。みんな苦労してるよ。そんな言葉は欲しくない。だって、私たちは体も心も成長して、その苦労が人によって大きさが違ったり、受け取る人の器によって痛みが違ったり、全部が違う形をしているのを知っている。

変な言い方だけど、大切にしたいよ、この第二の思春期。なるべく取りこぼさないように、感覚を捨ててしまわないように、誰かに損なわれないように。

 

マブは今も奮闘しているだろう。

それから数週間後、マブからお子が寝返りを打った動画が届いた。

案の定、私は泣いた。

 

子どもは未知な生き物。

でもきっと、彼もまた私たちと同じように世界に息苦しさを感じたりするのだ。その時、どうか私が彼を損なう言葉を口にしませんように。

 

そんなことを考えていた一ヶ月だった。