やわらかい

日々、いろいろ、ほそぼそ

人と生活の話


やってしまった…。今日は過眠の日だった。

週に何回か寝過ぎてしまう日、というか起きれない日があって、その日だった。こういう日は大体めちゃくちゃ落ち込んで、は〜となる。

は〜となりつつ、やれること、やっておきたいことは何かを考える。成果物が何かないと、本当に一日を溶かしたな…とさらに悲しい気持ちになるのである。

多分、自分に甘いのだと思う。甘いくせに、そういう自分に幻滅する。そうだから、自分に失望するのだろう。自分と付き合うって難しい〜。

 

こういう時、家に人がいたらいいのだろうなと思う。

しばらく前に母親が来ていたことがあり、それはそれで結構きつかったのだけれど。母とはあまり長い時間の間、私が一緒にいることができない。なので、母の存在や家族のような存在(兄は二人暮らしをしていたこともあるし、いけると思う)は除外して。

友人か、動物か、そういう存在が家にいてくれればいいのに、と最近はよく思うようになった。

 

私は家で、常に何か音がしている状態で生活している。

動画なり、ラジオなり、音楽なり、何かしらの音があると落ち着くからだ。これは自分が長らく「誰かとの生活」に身を置いていたことが大きいと思う。一人で暮らしている時間の方がまだ短いのだ。

さすがに眠るときは何も音がしない状態なのだけれど、本当に眠れなくて困ったときはイヤホンをつけて音楽を聴きながら眠る。

眠りに落ちる瞬間、周りの音がノイズのように遠くなっていく感覚に身を預けていると、どうしようもない心地よさがある。「あー、何か話してるな…その話は…」とか、気づいたら眠っている。それが、とても好きだ。

 

私は、自分の家に人が泊まりにくるとなると、ど緊張する。

家は自分の生活の空間、と思っていて、人に見られるのがどうも恥ずかしい。これは自分の本質なのだと思う。

本当の自分がずっとそこに居着いている証拠みたいなものが丸裸になっている気がする。見ないでー!と思ってしまう。まあ、それでも泊まらせて!と頼まれたり、いつでもどうぞ〜とは言っているので、人が来ることもある。その場合、家の中を大掃除することになる。

掃除以上の取り繕いは不可能なので、どっちにしろ、諦めるしかない。今さら家の中をオシャレにすることもできるわけではないし。

あと、私の家には暇を潰すものがない。私はそれで事足りているけれど、人がいるということになって、何かテレビにサブスクを繋いで見るとか、ゲームをするとか、そういうことが全くできない。

おもてなしもめちゃくちゃ苦手だ。

人に対して何かをしてあげたいのだけれど、お茶を準備するくらいしかできることもなくて、人を招くには私にはこれも無理だ!あれも無理だ!がたくさんある。

自分一人の生活の場所。家をそう思っているからだろう。人が来ることに対して、ど緊張するのだ。

 

でもそんな私は人の家に行くのがとても好きだ。なんちゅー身勝手な人間。

人は選ぶけれど、門戸が自由に開れていると、じゃあ行く〜となる。幼馴染の家しかり、引っ越す前から知り合いの関東の友人の家然り。

この二つの家では、まるで前から住んでいたのかというほどに寛いでしまう。

好きなようにしてていいよと言われると、本当に好きなようにしてしまう。

昼寝もするし、ご飯も人に作ってもらってしまうし、私はこの家の子どもなのだ…と身勝手な思い込みでのんびりする。お邪魔しているので…という気持ちが全くないわけじゃないので、たまにちゃんと洗い物をしたりする。でも、たまになんだよなと今書きながら最低の客人、と思っている。

 

この関東の友人の家は、引っ越す前に住んでいた家でもよくお世話になった。

自転車で五分くらいで彼女の家に行けたのだけれど、職場の同僚たちが彼女の家に集まってご飯を食べたり、そういうこともあった。気づいたら、彼女の家の向かいには職場の同僚が暮らすようになっていて、休日はどちらかの家に誰かが遊びに来ているという状況になった。

お風呂入ったら、部屋に行くね。とか、寝るから、あっちの部屋に帰るね。

その当時は何も言っていないかったけど、これ、理想の生活だよなあ、と私は思っていた。

この生活は、はっきりとした生活音が聞こえるわけじゃない。

けれど、扉を一つ隔てた先、区切られた先に、知っている人が生活している場所がある。見えないけれど、感じる人の気配。それが好きな人なら、どれくらい嬉しいだろうと。

 

この私が親戚の子どものように遊びに行っている彼女の家だけれど、朝から向かいの友人の家に行ってタコパか何かをする予定になっていた日があった。

私はぼんやりと眠りながら、彼女の家で誰かが起きた気配を感じていた。

この、微睡むような朝、誰かがひそひそと声を潜めて、いつもよりゆったりとした間合いで話しているのを聞くのがとても好きだった。もう何を話しているのかは聞こえていないけれど、夕暮れの台所で母が料理をしている音を聞いていた時のように、ふわふわとした柔らかいものに包まれているような感覚。誰かこれに名前をつけてくれたらいいんですけど。なんていうの?こういうの。

 

ラジオでもない、動画でもない、音楽でもない。本当に私が好きな生活音は、こういう音なのだ。

 

結局、のろのろと起きた私と、友人は似たようなパジャマを着て、彼女のパートナーに朝ご飯にと茹でていたゆで卵を握らされて、寝起きのまま向かいの扉の前に立つことになった。

ものすごい、夏休みの小学生という感じだった。ていうか、ゆで卵って。殻付きのゆで卵を握って、玄関の前で扉を開くのを待つ子ども二人。ちょっぴり滑稽で、いい雰囲気。ずっとずっとこれがいいよ、と思った。

 

人と暮らしたい、と思っている。

人と暮らしたいというのも、別にパートナーが欲しいとか、そういうことではない。自分だけの生活の巣ではなくて、誰かときちんと混ざり合っていたいのだ。私の好きなもの、誰かの好きなもの。混ざり合わなくても、すぐに届く場所に、人がいること。

私には、それが必要なのだと感じている。

 

人と生活がしてえなあ。そう思いながら、私は今日も自分だけのために料理をしたり、自分のために日記を書いて、差し迫っているイベントの原稿をするのである。