家族の話 そのに
会社との面談が終わり、お盆明けから職場復帰が決まりました。どうも不安ですが、まあなんとかなるしょ!だめだったら、また何か考えようと思いつつ、今日は昨日の続き。
昨日は、実家に住んでいる(住んでいた)祖父母、曽祖母の話を書いた。
今現在は、実家に両親、祖母、兄、そして愛犬が暮らしている。
両親とは昔の話をあまりしたことがない。
母がたまにしてくれるが、父が何の仕事をしているのかを私は小中高と知らないままであったし、(でもなんか大工とか建築関係)母が大学の文学部卒ということくらいしかあまり情報がない。自分の友達より知っていることが少ないと思う。
父は、最近ようやく気がついたのだがかなり変わっている。と、思う。
趣味がない。好きなものが何かわからない。こんなことある?何だろう、何かあるんじゃ…と思うのだけれど、お酒が好きで…私の幼少期の記憶は父は週刊ポストという雑誌を買ってくる人だった。
あと、母親とお風呂に入った記憶は少ないが、父とはお風呂に入っていた。それが多分父の役目だったのだと思う。
趣味のない父、母から聞く父というのは、それはもうすごい大変な人だった。幼い頃、母から父はろくでもない男だよと散々聞かされ、母の言うことは絶対!だった異常な時期の私は父を嫌っていたように思う。母とよく喧嘩をするし、その時の怒鳴り声がギャルの言う「スラム街」育ちなので、想像を絶するでかさと口の悪さ。普通の人間なら漏らすんじゃないかと思うほどに怖い。くしゃみもトド級。私にもその血が流れている…。
父は本も読まない。けれど、唯一読んでいたのはクロマティ高校だった。なぜ!?
そんな父だけれど、多分古めのヤンキー漫画とかを想像すると、なんだか人間が掴みやすくなる。
今じゃ許されないが、未成年での喫煙、飲酒、バイクや車の免許は早めに取る。好きなものは賭け麻雀、パチンコ。どっかで連載してるでしょ。そんな人だ。
父は昔パチンコをやりすぎて300万の借金を作った生粋のパチン……である。私はそれを聞くたび、やべ〜と思うと同時に大爆笑するのだが、結婚していた母はたまったもんじゃないだろう。父は基本的に脇が甘い。
携帯が新しくなり始め、スマートフォンに切り替えた時期に、こそこそと私に相談をしてきたこともあった。「変なメールが来るんやけど、どうしたらええのん?」何も言わへんから携帯を見せてくれと頼んだら、エッチな迷惑メールだった。その頃、私は父への反抗期や変な意識が全くなかったため、爆笑しながら「もっとうまくやれ!!」と全てを迷惑メールに放り込み、対策をしてあげた。私を頼るんじゃないよ。
困った人だけれど、多分、自分が男兄弟で育ったこともあり、娘の私がかなり可愛いのだと思う。お酒が飲めるようになった年、今も実家に帰省すると、飲もうと誘ってくる。
私が喫煙中なので、今は機会がないけれど、煙草を一緒に吸うのも楽しみにしている。
社会人になる時は、高くはないものの、時計をプレゼントしてくれた。父親から何かを直接プレゼントされることなんて、初めての体験で、私は困った娘なので「お小遣い大丈夫なの!?」と聞いた。んなもん心配すんな!と怒られたけれど、とても嬉しかった。電池を替えてもうまく動かなくなってしまって、今は使えていないのだけれど、あの時計を私は墓場まで持って行くことにしている。それくらいの衝撃だった。
帰省すると二人で喫茶店に行くことも増えた。それは、父方の祖母に会いに行った帰りのお決まりのコースになったのだ。
父方の実家は呉服店を営んでいた。
父方の祖父は、私たち兄弟が初孫で、息子ばかりだった祖父は私のことをたいそう可愛がってくれた。七五三は、祖父が仕立てた着物だった。
私はお化粧というものが大嫌いだったので、記念写真はたいそうぶすくれた顔をしている。
今までの人生で一番、やさぐれた顔だなと今でも思うレベルだ。
私が小学生の間に亡くなってからお店を畳んでしまっていたのだけれど、私は一応呉服屋の孫という立場にある。それもあって、初めてのバイトは着物で働ける場所を選んだ。今でも、多分……多分普通のお太鼓の帯の結び方なら問題なく着付けられると思う。
だから、本当なら成人式は祖父が仕立ててくれた着物を着ていくはずだったけれど、それは出来なかった。
その代わり、私が大きくなったら着れるようにと仕立ててくれていた着物を着た。振袖は兄の幼馴染のお母さんから借りて、それも着て、母の小袖も着て、祖父の遺した着物も着た。いや、どこのアイドル。成人式で三回も着替えるやつがどこにいる。
自分で着付けられて良かったー、と思った時だった。祖母に祖父が仕立てた着物を着て見せに行くと、すごく喜んでくれていたのを覚えている。「一人で着れるようになってくれてありがとうな」ほらね、やっぱ着れるようになっておいてよかった!と思った。
父方の祖母と、母は折り合いが悪かった。それも嫁姑問題だ。私は関係ないと思って、母の代わりに祖母に会いに行くことはしょっちゅうだった。そんな祖母も亡くなってしまったけれど、私は祖母の何を話せばいいのかわからない、という顔を見ながら、ゆっくりいろんな話をするのが好きだった。
父はポンコツで、粗雑で、無趣味で、変わった人だ。でも、本当は照れ屋で不器用で、人一倍素直な人なのだと思う。ことにしている。
ととさん、最悪の所業をネットの海に流してすまん。でも、ちゃんと私は父親のことを好きだ。
最近会うと、虫歯で日に日に歯を失っていっている。それを見るたび私は笑いつつ、歯いじりをしているが、心配だから病院に行ってほしい。
そんなポンコツ父と結婚した母。母は母なりに、苦労しまくっていたのだろう。父が子どもを叱ることより、母が叱ることの方が多かった。母親の恐怖政治みたいなものだ。私は母の言うことは絶対!!のような育ち方を途中までして、高校生くらいでかなり拗れた。
家の中の空気がどうにも最悪な時期、私は高校でも保健室によくいる人間だった。
保健室の先生に生理痛に効くというツボを押してもらいながら(めちゃくちゃ痛いけど、痛いと言うと喜ぶ人だった)、家にいたくないと色々相談をしていたら、こう言われたことがある。
「家族なんてねー、一番近いところにいる他人だよ。お母さんはね、あなたに色々言うかもしれないけど、きっとあなたから知ることもたくさんこれからあるのよ」
そっかー、他人か。
なんとなく、しっくりきた。それからも怖いことはたくさんあったけれど、それなりに母と良い距離感を保つことを意識するようになった。
そんな母だが、今でも思い出すと恐ろしい笑い話事件がある。
高校生の頃、絶賛遅れて来た反抗期だった私は部活に打ち込み、家に帰る時間が運動部より遅かった。
その日も疲れていて、家に帰ると気分がどうも良くならないため、何か小言を言われて「うっさいな!」と言い返して、二階のお手洗いに行った。
いつもなら鍵を閉めるのだが、その日に限って鍵をするのを忘れた。そうすると、階下から勢いよくリビングの扉を閉める音、勢いよく階段を上がる母の足音が聞こえた。
ヤバい。
そう思ったものの、時すでに遅し。
トイレの扉がバンッと開かれ、制服姿でスカートを捲り上げて座る私は、気づけば母親に前髪を掴まれていた。
「親にどんな口の利き方しよるねん!?」
次に来たのは平手打ち。
恥ずかしさと混乱で「ごめんなさい!!!」を絶叫した私。そして母はトイレを出て行った。
先生、他人て言うたやんか……。よくよく考えれば、他人にも「うっさいな」はありえない一言だ。私がこれ以降、母にぶたれた記憶はない。母も人間だ。マジでムカついたのだろう。考えれば考えるほど、私が悪い。
私のオカン、めちゃ怖いエピソードとして今も話す一つだ。
怖い母、どうにもちょっと苦手な母。だけれど、感謝していることも多くある。
母は子どもを塾に行かせない方針(というか、習い事は一つまでと決まっていた)で、その代わり、たくさん活字を読みなさいと私たち兄弟に言っていた。それは、絵本でも、マンガでも何でもよくて、そうしてたくさん本を読むと色んな世界に行けて、色んなことを知れるから。そう言っていた。
私は読書が苦手だった。小説とか。だから、母が持っていたり買ってくるマンガから始まって、小説もいつからか読むようになった。
美術館や、映画に行くこともとても多かった。旅行先では大体博物館か美術館が行き先のルートに入っていた。何が面白いねん、の子どもだったけれど、やっぱりたまにあの時見たあの絵が、とか映画とか、そういうことを思い出す。
音楽も多分そうだ。いろんな音楽を聴いて育った。文化的な家庭というより、雑多な趣味、というものに近いように思う。ただ、それらがあって今の私があることは間違いない。
あと、実家のご飯が本当に美味しい。
この世で一番好きな食べ物は実家のご飯と思っている。好き嫌いがなくなったのは、母の料理手腕あってのことと思う。そこにも感謝している。
ありがとうお母さん。でも、私の話や予定はよくちゃんと聞いていてください。最近「聞いてへんで」のごね方がすごいです。
そして兄。四歳違いの兄が私にはいる。
この人は私にとってオタク仲間であり、他人の中で一番互いのことを何も言わずに尊重しあえている間柄の人間だと思っている。
彼にはかなりの伝説が色々ある。
大学センター受験でのFate UBWのアーチャーの呪文詠唱(赤い服を着ていた)をし、満点の奇跡(これに関してはRTで回って来てマジの兄貴だったので大爆笑した)。社会人失踪事件、雨の日の側溝事件でゴールデンボールを負傷し深夜の救急車搬送、など。生きているオモシロコンテンツである。
今は元気な兄だが、元々小中といじめられっ子だった。家ではそれをおくびにも出さなかった。けれど、たまたま聞いた時のエピソードがあまりにも壮絶で、マンガじゃねーんだから…と思ったし、んなことしたヤツ全員どうにかしてやろうかと思ったこともある。
それもこれも、私がそんないじめられっ子な兄に守られて育って来たからだ。
兄は保育園に通っていた。
私はいつかの記事にも書いたが、保育園には通っていない。それには兄の助言がある。
兄は保育園で、いじめられていた。らしい。同級生にではなく、先生に。今となってはそれが先生の悪意か何かはわからないが、兄はそんなこともあって、保育園に私を入れるかどうかを迷っている母に「行かなくてもいいよあんなとこ」と言ったのだという。
悟り開いとるやないか。まだ齢七歳くらいにして、母親に「丸いはすぐにともだちできるからだいじょうぶ」と言い切ったらしい。中に大人でも入ってんのか?と思う堂々たる態度だ。
兄の口癖は「丸いの好きにさせたげたらいい」だった。母親と私が進路で口論になっても、何か他のことでも、「こいつはうまくやるから大丈夫」と言うことが多かった。
母は兄に弱い。私にとって一番の味方だった。
兄はべらぼうに頭が良い。
私は勉強嫌いで、記憶力以外でどうにもならない教科はからっきしできないタイプだ。あと、興味がない分野。でも、兄は勉強がかなり、いや、相当できる。そこには兄の生存戦略的なものもあったのだろうけれど、幼い頃から愛読書は図鑑、本の虫と言っていいほど読書が好きだった兄は、今や歩く辞典だ。
わからないことは兄に聞けば解決する。
母が兄に弱いと言ったが、それは私にとって嫉妬の対象でもあった。私がやりたいことを、兄が言えば許すのに、どうして私は許してもらえないのか。そんなこともあって、兄と私の間には妙なぎくしゃくした感覚もあった時期もある。でも、それは多分お互いの無い物ねだりのようなものだったのだと思う。
兄は私に「人付き合いの才能と、絵の才能はお前が全部持って行った」と言ったことがある。それを言うなら、勉強をし続けられた才能も、知識量も、私は兄に持って行かれた。
一度だけ、兄本人から直接にではないものの、私をどう思っているのかを綴った文章を見たことがある。それはある意味で、もう二度と見たくないものだったので、消してしまった。
けれど、それを見てからは互いを互いに受け入れるような、そういうゆとりの幅が心の中にできた。
兄とは本当に二人でこそこそと色んなことをした。
兄が書いた小説のキャラクターデザインを私がしたり、私のサイトに兄が書いた文章を載せたり、きわめつけは二段ベッドで寝ていた頃のキャラクターになりきるというナリチャ遊び。
互いに違うジャンルでオタクをしているけれど、元気そうだと安心する。そして、相変わらず私はおもしろいなあと兄のことを思っている。
ここまで思い出話を書いたけれど、家族。この言葉は、私に呪いをかけている。
家族だから。血が繋がっているから。目に見えないもの、理想とするもの、何でもない当たり前にある許し。
それらは、私にとってとても重いものだった。不幸は天秤にかけるものではないけれど、きっともっと複雑な家庭はあるだろうし、私の家庭には何か大きな歪さがあったわけじゃない。ただ、私にとってはボタンをかけ間違えたような、そんな違和感を感じてしまうものだったのだ。
他人なんだよ。私は少なくともその言葉に救われた。一番近いところにいる他人。許せることも、許せないことも、家族だからという理由ではどうにもならないことがあったりする。
でも、それが家族だから間違っているなんてことは、ない。
だからなのか何なのかは今のところ自分で探っている最中だが、家族を持つということにあまり憧れがない。いまいち、ピンと来ていない。
星の巡り的に、私は家族というものの業を背負っていると言われたことがある。
私は割とこういう、運命的なもの、というか星のさだめ、みたいなものを信じている性質なので、星の巡りがそうなら、まあ仕方ないか〜と片付けている。
人間、一長一短なのは当たり前で、私は家族のことを一番よく知っているとも思わない。だって、他人だから。
私は私なりに彼らのことが好きだ。それが自分でわかってさえしてればいい。
本当は犬の話もしたかったんだけど、長くなったので犬の話はまた次に。